古葉竹識さんの鬼と仏 広島OBは「衣笠祥雄、山本浩二以外はみな蹴られたんじゃないか」【2021年墓碑銘】
「優勝パレードをしたい」
〈耐えて勝つ〉を座右の銘に、厳しい指導で広島東洋カープを球団創設以来初のリーグ優勝に導いた古葉竹識(たけし)さん。優しさも持ち合わせ、若い選手への気配りも忘れなかったという名将を偲ぶ。
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セ・リーグの“お荷物球団”といわれた広島東洋カープを1975年、球団創設以来初のリーグ優勝に導いた立役者が、当時監督を務めた古葉竹識さんである。就任1年目の快挙だった。
「優勝パレードをしたい」
古葉さんが球団オーナーにそう持ちかけ実現。沿道の30万人を熱狂させた。
79、80、84年と3度日本一に輝き、「赤ヘル軍団」の黄金期を築いた。躍進を支えたのは猛練習だ。元捕手の水沼四郎さんが語る。
「捕手はたった5メートルの距離から約1時間ノックされました。あざだらけになり、立てなくなるほどでした」
試合中も厳しかった。水沼さんがリードでヘマをすると古葉さんの“足が飛んで”きたという。投手だった安仁屋(あにや)宗八さんによると、
「昔の広島市民球場のベンチは低い位置にあるので、蹴っても自陣以外の人には見えにくい。衣笠祥雄、山本浩二以外はみな蹴られたんじゃないかな(笑)」
〈耐えて勝つ〉が古葉さんの座右の銘だが、こうした厳しい練習に耐えて勝つチームに育て上げた。
長嶋茂雄と首位打者争い
ただ、厳しいのは球場内だけで、外に出れば優しかったと安仁屋さんは話す。
「遠征先では試合後、監督、選手が一緒に食事するんですが、打たれた投手、打てなかった野手にも古葉さんはビールを勧めてました」
若い選手にも気配りした。スポーツライターの赤坂英一さんが元捕手の達川光男さんから聞いた話では、
「シーズン終盤の消化試合になると、2軍から上がってきた選手に『おまえ給料なんぼだ』と質したというんです。安い給料の選手には、出場機会をつくって1軍出場手当が出るようにしてあげたようです」
鬼と仏の心で選手を掌握した古葉さんは36年、熊本県に生まれた。済々黌(せいせいこう)高校から専修大学へ。同大学中退後、日鉄二瀬(ふたせ)を経て58年に広島カープ入団。
63年には長嶋茂雄と首位打者争いを演じ、足も速く盗塁王2回。70年にトレードで南海に入るが、当時の監督は就任したばかりの野村克也さん。選手、コーチとして2年ずつ在籍する間に、野村さんは古葉さんの指導者としての手腕を見抜いていた。古葉さんの三男・隆明さんが語る。
「『お前、絶対にカープには戻さんぞ』と野村さんから言われたと父から聞きました。74年、専修大の先輩・森永勝也さんが広島の監督になり、請われて戻りますが、野村さんから学んだことは大きいと思います」
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