松平健の紅白出場で振り返る「暴れん坊将軍」豆知識 起用のワケは“史実に近い身長”だった?
大岡忠相と辰五郎は別の仕事にコンバートしていた
令和の現在も名奉行として名高い大岡忠相。初回の放送では普請奉行の要職に就いていた。南町奉行は松本甲斐守(かいのかみ)が務めていたが、悪事が発覚したことで切腹。その後任として、大岡忠相が就くことになった。
一方、辰五郎は徳川吉宗が部屋住みの侍だった頃、酒に酔って殴り合いの大げんかをした仲だという。初回の放送で、8代将軍就任直後の夜に再会している。当時はとび職のカシラだったが、第3回の放送で町火消の設立が決まり、め組に衣替え。以降、江戸町火消の代表かつ、“徳川吉宗の憩いの場”かつ、“徳田新之助の拠点”として定着する。
なお、辰五郎は『暴れん坊将軍VIII』で、め組のカシラを長次郎に任せ、町火消の肝煎りを務めたあと、『暴れん坊将軍IX~XII』で口入屋の元締に就いている。女房のおさいは『暴れん坊将軍IX』以降、病死という設定になった。
※注:2008年12月29日放送のスペシャルでは、初期の設定に戻しており、め組の辰五郎とおさいが演者を変えるかたちで復活した。
貧乏旗本の三男坊、「とくだしんのすけ」は放送途中で改名していた
『暴れん坊将軍』の徳川吉宗は政事(まつりごと)の傍ら、“「貧乏旗本の三男坊」という名の世を忍ぶ仮の姿”で江戸の町を歩いた。その名は「とくだしんのすけ」。今では「徳田新之助」の字が一般的だが、実は初回の台本では、「徳田新之介」と表記されていた。
では、「新之助」に改められたのは、いつなのか。詳細な時期は不明ながら、読売新聞1978年5月11日朝刊に掲載された、辰五郎の妹、おまち役を演じた岐邑美沙子(きのむら・みさこ)のインタビュー記事内に「新之助」の表記が確認できた。おそらく初回放送から5月放送分までのあいだに、「新之介」から「新之助」に改名したようである。
御庭番の殉職を機にマジ斬り解禁
徳川吉宗は将軍という立場上、「無闇に殺生すべきではない」というポリシーを持ち、また権威ある将軍の着衣を悪人の血で汚さないよう、立ち回りでは基本的に峰打ちで悪人を倒す。
放送開始当初から悪役を斬るのは御庭番や準レギュラーの山田朝右衛門に任せていたが、自ら“斬る”こともある。解禁となったのは、第87回。御庭番の藪田助八が徳川吉宗を守ろうと凶弾に倒れてしまったことがきっかけだった。その瞬間、徳川吉宗の怒りが頂点を越え、刀を峰打ちから“マジ斬り”に切り替え、自ら成敗した。
松平健の立ち回りもシリーズを重ねるごとに凄みが増してゆく。『暴れん坊将軍II』では峰打ちが1回もなく、悪党全員マジ斬りの放送回があったほか、絶頂期(1990年1月27日放送回で過去最高の視聴率24.4%を記録)といえる『暴れん坊将軍III』では、立ち回りのスピード感が格段に速く、まさに「天下無双」という言葉が当てはまるほど。
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