いきものがかり「水野良樹」が語る「酒との付き合い方」 下戸には下戸の戦い方がある

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 年末年始、普段よりも「お酒の場」が増える時期だ。しかし、下戸には辛い時期。実は人気音楽ユニット「いきものがかり」リーダーの水野良樹さんも、お酒が苦手だそう。「下戸の気持ち」の詰まったエピソードを、最新エッセイ集『犬は歌わないけれど』から紹介する。

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下戸の戦い方

 昔よりも酒を飲まなくなった。

 もともと強くはない。ビールを1杯飲めばすぐに顔が赤らみ、ひとときは陽気になって冗舌になるが、そのうち眠気をもよおし、盛り上がっている宴席で眠りだしたり、帰りたいという気持ちを顔に出してしまったり、その場の楽しさに水を差すような存在になってしまう。一応これでも大人だから失礼のないようにしたいし、酒席の興を削ぐようなことはしたくないと頑張ってはみる。だが、そんな理性みたいなものこそ酔いによって崩壊しているので、しまいには本心がダダ漏れとなり「なぜこんなに夜遅くまで酒好きに付き合わなきゃいけないんだ。なぜ飲めない自分がそちらの常識に合わせなきゃいけないんだ」と怒りにも似た感情があふれ出てきてしまって険悪なムードをつくってしまうこともある。

 だからそもそも酒席を避けるか、最近では飲食店でもノンアルコールビールを用意してくれていることが多いので、冒頭の乾杯だけはそれを手にして場の空気に合わせ、あとは頃合いの良いところで正直に「そろそろ」と提案することにしている。

お酒以外の形で

 無理に付き合うことはやめた。というか、こちらが飲めないことを知っているのに、それでも怒りだすような相手ならたぶんいずれにしても長くは付き合えないだろう。向こうだって「俺の酒が飲めないのか、つまらない奴だ」と思っているだろうから、やはりウマが合わなかったということで致し方ない。

 20代の頃は先輩方にご馳走して頂くことも多く、礼を欠いてはいけない立場だった。何よりも体力があったので無理をしてでもついていった。だが30代に入ると人付き合いでの諦めのようなもの、線引きのようなものをしてしまうようになった。自分はもう、一部の酒好きの皆さんが掲げる「社会常識」には適合できる気がしない。それで何か損をするのなら、もう仕方ない。甘んじて受け入れる。芸事の世界には先輩たちから頂いた恩を下の世代に返すという慣習があるが、自分は酒ではないかたちで後輩たちに何かを返そうと思う。

下戸の主張

 社会に出て十数年がたって、少し思ったことがある。若造がただ生意気になっただけなのかもしれないけれど、下戸の一意見と思って聞いてほしい。

 やはり、こと仕事の話において「腹を割って本音で話そう」という場は酒席であるべきではないと思う。特に自分より上の世代の男性に多い印象があるが、仕事上でトラブルがあったり、深い議論を必要とする出来事があったりするとすぐに「一度飲みに行こうよ」と言いだす人が結構いる。にんまりと笑顔をつくり、こちらの肩に手でもかけてきそうな距離感で「酒を酌み交わしながらゆっくり話せば分かるよ」と言うのだが、これが下戸からするとまったく理解できない。

 率直に言えば、酔いで理性を外さなければ仕事の本質的な部分について語れないのは仕事人として駄目だと思う。……などと仏頂面で身も蓋もない正論を吐くと「そんな固いこと言うなよ。分からないやつだな」と酒好きの皆さんの声が今すぐにでも聞こえてきそうだ。なかなかどうして、分かり合うのは難しい。

 本音を言えば酒好きのペースですべてを進められたくないのだ。下戸には下戸の戦い方があるし、人との向き合い方がある。それもまた人それぞれか。

 〈水野さんが酒の代わりに愛している飲み物、それは……。〉

今日もコーヒーを飲んでいる

 飽きもせず、いつもコーヒーを飲んでいる。

 喫茶店やカフェと呼ばれる場所が好きだ。感染予防のために最近は行きづらくなってしまったけれど、以前は他人に驚かれるほど行っていた。

 どれほどの頻度か。告白するのが少し怖い。読者の皆さんにぎょっとされてしまいそうだ。白状する。多いときは1日に7軒から8軒も行っていた。いや待ってくれ。どうか最後まで読んでほしい。今からちゃんと説明をするから。

 同じ店で何時間も粘ることはしない。長いときで1時間弱だろうか、しばらくすると店を移す。場所を変えることで気持ちが切り替わるのが好きだ。都心とはいえ同じ街にカフェが数十軒もあるわけではないから、1日のうちに2回訪れる店も出てくる。「あれ? 水野さん、朝も来てましたよね?」なんて店員さんに聞かれるうちはまだ序の口で、最近は見慣れたのか、何度行こうが驚かれもしない。

 実はポイントカードの得点がたまりすぎていて、数十杯分のコーヒーを無料で頼めるのだが、そこまでくるとポイントを使うのが申し訳なくなり、ほとんど使っていない。ひたすら店の売り上げに貢献する優良な常連客となっている。

喫茶店をハシゴして

 それほどまで頻繁にカフェを訪れて、一体何をしているのか。

 たいしたことはしていない。この連載のような原稿の執筆だったり、事務仕事のたぐいだったりをこなしている。1日で7軒も8軒も行くようなときは、たまにある長文原稿の仕事か、グループ活動の企画を考えている場合だ。思索に行き詰まると店外に出て街中を歩き、次の店へ入って環境を変えると気持ちも自然とリセットされて、もう一度考えを巡らすことができる。それを朝から晩まで繰り返している。それだけのことだ。だが、ぜいたくではあると思う。

 店にもよるがコーヒー1杯とはいえ数百円はする。数回でも重ねれば結構な額になる。それを週に何日も繰り返すとなれば、これはもうぜいたく以外の何ものでもない。浪費だとお叱りを受けてもおかしくない。自覚はしている。だが、このカフェ通いだけは自分に甘くなって許している。

予備校時代の夢

 かつての受験生時代。当時、アルバイトで予備校の受講料を工面していた自分は金がなかった。その頃、予備校生で「カフェで勉強をする」と言い放つ優雅な人たちがいて、それがひどくうらやましかった。

「自分だって受験させてもらえるだけ、幸せな環境にいるんだ。ぜいたくを言っちゃいけない」と思いながらも、悔しさの果てに当時決意したのが「いつか俺は毎日カフェに行けるくらいに稼いでやる!」という夢だった。

 果たしてその夢を今、忠実に実行している。

 デビューして名前が売れて大きなお金が入ってきたときはあった。

 品行方正を気取るつもりはなくて、今となっては恥ずかしくなるようなぜいたくもいくつかしたと思う。だが、結局、自分の心持ちを支えるのは、派手なことよりも「毎日気兼ねせずに好きなカフェに行ける」というような、日常が豊かになるぜいたくの方であったりもする。考えてみれば、その豊かさはとても尊く、そして実現するのはとても難しい。ましてや日常ががらりと変わってしまった現在ではなおのことだ。

 幸せや豊かさを感じさせてくれるのは、コーヒーが何げなくここにあってくれるようなことなのかもしれない。

デイリー新潮編集部

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