電通「鬼十則」を執筆した4代目社長「吉田秀雄」 人見知りする性格で愛称はゴジラ
民間ラジオ局の誕生
吉田が民放構想にかかわりを持ったのは、敗戦の年の秋だった。日本の民主化を企図したGHQは、NHKによる一局独占を再編する方針を示した。
これを受けて東京商工経済会(のちの東京商工会議所)は民間企業から発起人を募り、その年12月「民衆放送」会社設立を申請した。広告収入だけで運営する商業ラジオ放送は米国に実例があるものの、具体論となると誰も知らない。
準備委員会の委員長は東商理事長の船田中(ふなだ・なか)。経営のカギとなる広告業の代表として吉田が副委員長になり、準備を仕切った。
船田は作新学院の設立者の一族だ。東証会頭の藤山愛一郎とともに東証理事長だった船田も公職追放となった。追放解除後、自由党から国会議員に立候補し、衆議院議長にもなった。作新学院理事長としては、同高校OBである江川卓の読売巨人軍入りに介入し、それ実現させたことで知られている。
しかし、1947(昭和22)年にGHQの政策転換で民放開局は先延ばしとなる。
2年間の空白を経てGHQが方針を再転換。吉田の熱心な啓蒙活動が功を奏し、中央と地方の新聞社を中心に、民放設立の申請ラッシュが起きる。放送法が施行された50年秋には、その数は72社に上った。東京だけで28社という乱立状態となった。
「鬼十則」は営業マニュアル!?
《一地区一局という設置方針があり、今度は一本化調整が吉田の肩に重くのしかかった。各社独自路線を主張して譲らない。吉田の策は、合併の是非を問うアンケートを発起人に出し、九割が一本化に賛成という結果を示すことだった。「一世一代の大芝居」(吉田自身の発言)は成功する》(前出『20世紀日本の経済人』より)
胎動6年。吉田がお膳立てした民放ラジオは、1951(昭和26)年9月、名古屋の中日新聞社系の中部日本放送を皮切りに放送が始まった。難産の末、電通と朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社の新聞3社が一本化して生まれたラジオ東京(現・TBSホールディングス)は、同年12月25日に本放送を開始した。
民放ラジオ放送がスタートする1カ月前の同年8月、創立51周年の席で、「鬼十則」は発表された。1951年という年は日米安全保障条約が調印され、連合軍最高司令官のマッカーサーが解任された年である。翌52(同27)年4月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効し、日本は独立を果たした。
同時に、民放ラジオ局が開局した。いざ開局すると、各局とも広告の申し込みは予想を大幅に上回った。民放ラジオの広告効果は急速に浸透していった。吉田は子飼いの社員を惜しげもなく民放各社に送り込み、出資にも応じた。
民放ラジオ局の仕事を取るための実践論が、「鬼十則」だったという裏話がある。
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