電通「鬼十則」を執筆した4代目社長「吉田秀雄」 人見知りする性格で愛称はゴジラ
玉音放送に雄叫び
《東京大空襲で焼け野原になった銀座外堀通りで、日本電報通信社(現・電通)本社ビル(現在の電通銀座ビル)は大きな被災を免れた。その二階大広間で、社員は終戦の玉音放送を聴いた》(以下、前掲『20世紀日本の経済人』より)
《一同、首うなだれるなかで、「これからだ。仕事が始まるぞ」と叫ぶ男がいた。常務の吉田秀雄である。彼は翌日から率先、社屋内外の清掃を始める。吉田が張り切ったのは逆境に強い性格ゆえのみではない。やがてやってくる平和の時代を念頭に、広告界の体制を着々と固めていたからだ》
日本電報通信社は1936(昭和11)年、通信部門を新設の国策企業・同盟通信に移譲し、広告専門会社に改組した。吉田は41(同16)年に地方部長、翌年6月に取締役、12月に常務取締役となり、終戦を迎えた。同盟通信は戦後、共同通信社と時事通信社に分離した。
戦時下の軍需優先経済の下、広告料金も統制の対象になった。吉田はこの逆境を徹底的に利用した。商工省と計って広告料金を準公定にし、初めて広告の正価取引を実現する。全国地区別の広告代理業の統廃合では、186社が12社になったが、電通は本支社合わせて4社が生き残った。
戦時下の国策、統制に便乗する形で、吉田は広告取引の公正化と統廃合を強引に実現させた。吉田は同業者や広告主から誹謗中傷を受けたが、この改革によって電通の優位が確立され、戦後の飛躍の大きな助けになった。
満鉄社員を積極雇用
1947(昭和22)年6月、GHQ(連合国軍総司令部)による公職追放で通信畑出身の社長、上田碩三(うえだ・せきぞう)が辞任。吉田は43歳の若さで電通の4代目社長に就任した。
吉田は外地から引き揚げてきた満鉄の職員や職業軍人を次々に採用した。銀座にある電通ビルは、広告業界では「第二満鉄ビル」と呼ばれた。
次に吉田は公職追放された政治家、財界人、新聞人を集め、電通ビルで「旧友会」という名の食事会を催した。
満鉄は南満州鉄道の略称である。日露戦争で日本が得た東清鉄道の一部(長春―旅順)と付属利権の経営のため、1906(明治39)年に設立された特殊会社。鉄道と撫順(ぶじゅん)炭鉱、鞍山(あんざん)製鋼所を中心に、交通、鉱工業、商業、拓殖など多角経営をした。付属地一般行政権と警備駐兵権を裏付けに、日本の満州経営の中核となった。
特に満州事変以降、急激に勢力を拡大し、大コンツェルンを形成したが、1945(昭和20)年、敗戦によって全資産を接収された。
《食糧難なのに「電通に行けば、ただでビフテキが食べられる」との噂がたつほどであった》(前掲『われ広告の鬼とならん』より)
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