電通「鬼十則」を執筆した4代目社長「吉田秀雄」 人見知りする性格で愛称はゴジラ
「押し売りと広告屋は入るべからず」
「鬼十則」が光永の経営理念を色濃く反映しているのは、このためである。
「電通富士登山」は現在も新入社員研修の一環として行われている伝統行事だ。新入社員は東京・汐留の電通本社から富士登山に出発。静岡県駿東郡の須走浅間神社で安全を祈願し、登山を開始。夜中に山頂に到着し、翌日の早朝に山頂からご来光を拝み、万歳三唱する。
富士登山をすませて、新入社員は晴れて電通マン、電通ウーマンになるのである。今流にいえば、電通パースンか。
吉田が入社したのは、「押し売りと広告屋は入るべからず」と書いた警告文を玄関に張り出す会社が多数あった時代だ。
広告は押し売りと同様に扱われ、広告代理業の社会的地位は低かった。当時は、談合、裏取引、リベートがまかり通っていた。
《吉田は同期入社の4人と語り合い、広告の研究会を始める。丸善から自腹で英米の関連書籍を購入し、輪読会を続けた。広告先進国の実態を知るにつけ彼我の違いを痛感。広告界の陋習(ろうしゅう)改革と地位向上は、吉田の職業人生を貫く太い縦糸となった》(『20世紀日本の経済人』日経ビジネス人文庫)
《だが、吉田はただの頭でっかちではなかった。営業の実務でも歯を食いしばった。通信部門が国策通信社の同盟通信に吸収されたことで、電通は広告業に特化でき、売り上げを伸ばした。吉田も所属する地方部の扱いだった大陸向け広告で、大いに稼いだ》(同前)
2回の養子体験
「広告業はビジネスジネスの名に値せず、他産業に比べて30年遅れている」が吉田の口グセだった。広告業の近代化を目指し「広告の鬼」たらんとする並外れた闘争心は、吉田の生い立ちと密接に関係があった。
吉田秀雄は1903(明治36)年11月9日、福岡県小倉市(現・北九州市)で生まれた。
尋常小学6年のとき、父・渡辺勝五郎は現場監督をしていた台湾の建設工事で事故死、家族はどん底に突き落とされた。秀雄は新聞配達で家計を助けた。母・サトは秀雄を進学させるために養子縁組を考えた。
最初、軍医の家に養子に出されたが、軍医の妻が妊娠したため養子縁組は破棄された。次に、小倉の素封家である吉田家に養子として入った。渡辺秀雄は、2度の改姓で吉田秀雄となった。「中学を卒業するまでは辛抱するのよ」。涙ながらこう諭した母の姿を、秀雄は一生、忘れることはなかった。
吉田家が学費を出し福岡県立小倉中学(現・小倉高校)、鹿児島の第七高等学校(現・鹿児島大学)に進んだ。だが、第一次世界大戦後の金融恐慌で吉田家が破産し、学資の送金は途絶えた。
兄・政太郎の支援で東京帝国大学経済学部へ進学したが、授業料不払いで退学処分寸前の危機が年度ごとに訪れた。留年して退学も考えたが、友人たちの励ましで卒業に漕ぎつけた。
秀雄の苦虫を噛みつぶしたような風貌には、苦悩の半生が刻み込まれている。
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