町工場で実践した「意識改革」と「生産性向上」――諏訪貴子(ダイヤ精機代表取締役)【佐藤優の頂上対決】

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リストラから始める

諏訪 原理原則に立ち返って考えると、利益=売り上げマイナス原価です。黒字にするには、売り上げを伸ばすか、原価を下げるかしかありません。それでまず行ったのはリストラなんです。

佐藤 賃金は原価の中に入っていますからね。それを減らした。

諏訪 実は私は父の会社に2度入って2度とも数カ月で辞めています。その時に会社の問題を分析して、父に不採算部門のカットを進言したことがあったんですね。つまりリストラです。そうしたら、2度とも私自身がリストラされた(笑)。

佐藤 ご尊父は、そこには手をつけたくなかったわけですね。

諏訪 リストラは、廃業した方がよかったんじゃないかと思うくらい私も辛かったです。でも一刻も早く黒字にする必要があった。

佐藤 というのは?

諏訪 銀行です。最初、銀行は私が社長になるのをよく認めたな、と思っていたら、就任した途端、合併話を持ってきたんですよ。銀行が必要なのは、私ではなく、代表者としての私の印鑑だけでした。その時、「すぐに黒字にするから見てろよ」と啖呵を切ってきたんです。

佐藤 まだ女性経営者も珍しいし、軽く見ていたんでしょうね。

諏訪 昭和の感じでしたね。最初、上から目線で「お前さ」と言われたんです。普段は怒らないタイプの私も、「お前って、誰に言っている、お前は」と言い返したんですよ。そうしたら相手はびっくりしたみたいで、チャンスをくれたんです。

佐藤 私の父は銀行員でした。ただし技術系で融資の仕事はしていないのですが、問題のある企業から貸し剥がす姿を間近で見ている。だから我が家の家訓は「銀行から金を借りるな」です。

諏訪 やっぱり銀行と企業はパートナーで、対等でなければ取引できないと思うんです。だから「お前」という言葉尻を捕まえて対等に持っていったのですが、こちらも結果を出さなければならなくなった。

佐藤 何人リストラされたのですか。

諏訪 5人です。それも27人中の5人です。ただその5人は設計を自分で請け負い、自ら図面が引ける専門技術のある人たちでした。だから、他に行ける場所があったんです。

佐藤 それまでに会社がきちんと技術を習得させたということですね。私も鈴木宗男事件に関連して逮捕されましたが、外務省にロシア語を習得させてもらいました。だからその後の人生は、カニ漁船の通訳でもやろうかと思いましたね(笑)。ロシアの密漁船との洋上取引の通訳なんて、怖いから誰もやらないんです。

諏訪 やっぱり専門技術を持っている人は強い。でも他の社員たちからはものすごい反発を食らいました。そこで、会社の課題を示して「あなたたちがこれをきちんと解決してくれるなら、私はこの椅子に座っているだけにします。でもできないのであれば、私が経営します」と宣言したんですよ。そこからまず3年と区切って改革に取り組んでいきました。

佐藤 その3年はどう組み立てたのですか。

諏訪 まず、最初の1年は基盤強化、意識改革です。とにかく製造業の基本を理解してもらおうと、実践と教育を繰り返しました。これがけっこうたいへんで、改善会議をしてくださいと言っても、職人さんだから会議をしたことがないんですね。みんなシーンとしてしまい、発言しない。

佐藤 資料を準備し、説明し、議論する会議は一部の世界ですよ。

諏訪 そうなんです。それじゃあと、切り口を変えて、私と会社の悪口をどんどん言う会議にしたんですよ。すると、少しずつ話が出てくるようになった。悪口でも問題点にきちんと対応すれば改善になります。ただし社員同士の悪口はダメです。それで徐々に社員に一体感が出てきたんですね。

佐藤 それは以前からの信頼関係があったからじゃないですか。

諏訪 どうですかね。対社長の悪口だと、より一体感が出た(笑)。それで「悪口会議」という名前にしたんです。もっとも入社2年目だったりすると悪口も言いづらい。そこで「褒める会議」も作りました。そしていいところは伸ばし、悪いところは改善する土壌が生まれたんです。

佐藤 「悪口会議」という言葉がいい。新鮮な語感です。

諏訪 これが突破口になりましたね。創業者だった父はトップダウン型の経営ですが、私にそれができるはずがない。それで組織もボトムアップ型に作り変えていったんです。

佐藤 意識改革と組織づくりがうまく噛み合っている感じですね。

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