【対談】川村元気×岩井俊二 映画と小説の作り方はどう違う? 二人が語る“小説沼”とは

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ライティングを考える

岩井 取材して得るものってすごく大きいよね。僕も、3人くらいから濃密な話を聞いたら、もうできちゃうなと思うときはある。

川村 映画で必ずロケハンがあるように、小説を書くときも必ず取材はします。今回は第2篇の舞台になっている青森にも行ったんですが、りんご園に実際に立ってみると、画(え)が見えてきたというか。ああ、ここを花音が恋した青年と自転車で二人乗りして走って行くんだな、とか。先ほどの岩井さんの話とも通じますが、“人物がここに立っている画”が見えると、これは物語になると確信できます。

岩井 映画のほうも忙しいのに、取材にどれだけ時間を費やしたんですか。

川村 前の小説や映画と並行して、5年くらいですね。小説に出てくるエルサレムも、コロナ前に行きました。あとは舞台になる小鳥店をまわったり、青森に行った時は恐山まで足を延ばしたり。岩井さんが「ラストレター」のとき、自ら仙台をまわってロケ場所を見つけたという話がありますよね。僕、あれにも結構影響を受けて、やっぱり自分で動かなきゃダメだなと思って。結果、恐山は書いてないですが、そこに行く途中にあったレースサーキットの廃墟がとても印象的な場所だったので、小説にも登場させました。

岩井 すごく写実的でした。

川村 小説を書くとき、僕の場合は完全にカット割りが決まっています。ここはツーショットで、ここは寄る、引くとか、どうしても浮かんできちゃって。岩井さんはどうですか。

岩井 漠然と浮かんではいますね。どういうライティングになっているかとか。

川村 わかる、僕もライティングは考えます(笑)。ライティングって本当に大事で、仮に同じ人が同じことを喋ってても、照明次第で印象は大きく変わる。

岩井 ただ、映像のほうが客観的だから、小説だとどうしても視点人物の主観に縛られているように感じることもあります。

“信じ切った人”は幸せ?

川村 映画と比べると、小説の強みと弱みがはっきりと見えてきますよね。小説は語りが誰かの目線に固定されてしまいがちだけど、だからこそ芥川の「藪の中」のように、視点を変えると違うものが見えるという驚きも生まれる。映画だとカメラに写っちゃうから難しい。『神曲』を3篇構成にしたのは、ダンテに倣ったというのもありますが、三つの視点で神を見ることで、そういう効果を生み出そうと思ったのもあります。

岩井 信じきったお母さんの第2篇、妙に気持ちいいよね。信じるって、言葉を変えればもうそれ以上考えないってことだから。

川村 確かに。信じると、もう疑わなくていいから、閉じた世界で幸せに生きられる。第2篇で描きたかったのはそこなんです。信じきっちゃった人って、周りから見たら危ない人かもしれないけど、本人は結構ハッピーなんじゃないかって。

岩井 狂気なんだけど、独特の心地よさがありました。第1篇のお父さんの話は三人称一視点でわりと客観的に書いてあるんだけど、第2篇は完全に一人称の主観。あのコントラストは上手いなと思った。映像でも第二篇のような世界を表現できたらなって思うんだけど、なかなか難しいですね。

川村 そうですね。映画は基本的に三人称の世界だから、心象をどうやって撮るかが難しいなっていつも思います。稀にそれに成功した映画があって、「バードマン あるいは」とか「ブラック・スワン」とかは、素晴らしい一人称映画だなと思います。

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