ウィンブルドン優勝「沢松和子」引退後の功績に迫る 車いすテニスのレジェンド・国枝慎吾を輩出(小林信也)

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研修センターを開設

 引退後、和子は表舞台から姿を消した。2019年に日本テニス協会副会長に就任したが、取材にはほとんど応じていない。そんな和子の伝説を辿ろうと思ったのは、東京2020の取材で彼女の名前に遭遇したからだ。

 和子は引退後、ヨーロッパでスキー指導員を務めた経験もある吉田宗弘と結婚。二人は90年、千葉県柏市に吉田記念テニス研修センター(TTC)を開設した。屋外8面、室内6面のほかフィットネスルームもある。ジュニアの育成、車いすテニスの支援、スポーツ科学に精通した指導者の育成で実績を重ねている。誰もが知る成果のひとつが、車いすテニスのレジェンドと呼ばれる国枝慎吾選手だ。

 国枝は9歳の頃、脊髄腫瘍を発病し車いす生活になった。2年後、母の勧めで車いすテニスと出会った。国枝が少年時代からラケットを握りボールを追いかけたホームコートこそ吉田夫妻が創ったTTCだった。

 07年全豪オープンに旅立つ前。国枝が吉田宗弘理事長に思いを打ち明けた。

「どうしても世界一になりたい。どうすればいいか」

 当時まだ世界ランク10位前後。吉田はすぐオーストラリアの有名指導者アン・クインに連絡を入れ、全豪オープンの会場で3人は合流した。アンは国枝の意志を確かめた。

「一番になりたい」、国枝が答えると、「それなら今から始めましょう」、その日から二人の挑戦は始まった。中でもメンタル強化は国枝の成長に大きな影響を与えた。

「毎朝鏡に向かって、『オレは最強だ』と叫びなさい」

 アンの教えを国枝はやりきった。わずか9カ月後、国枝は全米オープンで初優勝を飾り、グランドスラム達成の階段を昇り始める。

 吉田夫妻が柏にコートを作らなければ、車いす選手にコートを開放しなければ、国枝も誕生しなかった。レジェンドの情熱が確かに繋がっている。和子はTTC主催大会で「ニューミックステニス」の普及にも力を入れている。車いす選手とプレーするダブルス。和子は自ら出場し、楽しさを伝えている。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2021年12月23日号掲載

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