羽生結弦を襲った「五輪ボイコット要請文」騒動 許されない選手の政治利用
選手を政治利用していいのか
だが、世界も学びつつあるということだろう。
「今回、アメリカは中国を批判しながらも、選手団の派遣まではボイコットしていません。モスクワ五輪から40年以上が経ち、政治は政治、スポーツはスポーツという割り切りができたのは、進歩かもしれません。選手にとっては、オリンピックへの参加は、使命ともいえます。人種も思想も信条も、あらゆる違いを超えて同じ場所に並び立つことが、オリンピックの理念のひとつ。選手の参加は、こうした理念の表明であって、今回のように羽生選手にボイコットを求めれば、その理念を否定することになってしまいます」
むろん、人権侵害に対して問題提起をする意義はある。だが、そこに羽生選手という個人をからめた途端、オリンピックの政治利用を批判しながら、選手までをも政治の側に引き寄せることになってしまう。巻き込まれた羽生選手は、たまったものではない。
事実、羽生選手への「要請文」には、こう書かれていたようだ。
〈人間はこの世に生きている限り政治と無関係でいることはできません。スポーツ選手もです。羽生選手も一人の大人なのですから政治のことを考える時があってもいいはずです〉
12月12日、IOCは五輪サミットを開催し、オリンピックを政治化してはいけないという旨を宣言した。バッハ会長の、中国に忖度(そんたく)する姿との間に矛盾も感じるが、政治も思想も超えた場所で、自らの限界に挑戦している選手を政治に巻き込み、その人権を侵害することは、あってはなるまい。