悠仁さまの進学先は筑波大学附属か東京農業大学第一か やはり最後に浮上する眞子さんと同じ問題
学習院との“距離”
この場合における「家庭教師」は、受験勉強という短期的な視野とは全く関係ない。
例えば上皇さまの場合、学習院の中等部に通っていた際に、東大名誉教授で東洋史が専門の山本達郎(1910~2001)や、東京文理科大学名誉教授で漢字研究者として知られる諸橋轍次(1883~1982)が、家庭教師を務めた。
「山本氏は『平成』の命名者、諸橋氏は大著『大漢和辞典』(大修館書店)の編者として知られます。日本を代表する知性と言っても過言ではありません。上皇さまも天皇陛下も学習院大学まで“エスカレーター式”に進学されることが決まっていたからこそ、受験勉強ではなく本当の学問に触れることができたのではないでしょうか」(同・記者)
改めて浮かび上がるのは、秋篠宮家が学習院とは距離を置こうとする姿勢だ。
「上皇陛下は学習院大学で学んでおられた際、公務で大学に通えず単位が不足したことがあり、それが原因で中退せざるを得なくなりました。これまで秋篠宮さまが学習院を評価されていないのは、ご自身の体験からではないかと報じられてきましたが、ひょっとすると学習院のこの判断をずっと疑問に思っておられたのかもしれません」(前出の神田氏)
「留年以外は認めない」
1953年6月、イギリスのエリザベス女王の戴冠式が行われた。皇太子だった上皇さまは、昭和天皇の名代としてイギリスに向かわれた。当時はまだ皇族をはじめ要人の飛行機による移動が一般的ではなかったため、横浜港から船でイギリスを目指されたのだ。
「このため約半年、大学に通えなくなってしまったのです。具体的には大学3年生に進学するための単位が足りなくなりました。とはいっても原因は立派な公務です。宮内庁も『半年のブランクがあるなら、3月ではなく9月卒業にすればいい』と話し合ったのですが、最終的には『留年以外は認めない』という結論になったのです」(同・神田氏)
大学を留年されるか、中退されるか──。上皇さまは中退を決断され、その後は聴講生として学習院大学に通われた。
この出来事は上皇さまのお心をかなり傷つけたと語られている。このエピソードを知った秋篠宮さまが、学習院に不信感を持たれたとしても不思議ではない。
「結局、小室夫妻の時と同じように、“天皇家の公と私”の問題が浮上するわけです。悠仁さまの高校と大学進学をどのように考えるか。つまり、次代の天皇陛下がどのような高等教育を受けられるかは“私”の領域であると考えるなら、国民がモノ申すことではありません。しかし“公”の問題だとすれば、国民の声に耳を傾けていただく必要が出てきます」(同・神田氏)
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