酒井政利さん 山口百恵は特別、歌手350人以上を手掛けたプロデュース力【2021年墓碑銘】

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プロデューサー生活60年で

 35年生まれ。立教大学卒業後、松竹に入社するが、61年に日本コロムビアへ。小説をもとに一から曲をプロデュースし、青山和子に歌わせた「愛と死をみつめて」が64年の日本レコード大賞を受賞。68年、当時のCBS・ソニーへ。劇団「天井桟敷」を主宰する寺山修司との交流からカルメン・マキの「時には母のない子のように」が生まれ、69年に大反響を呼んだ。

 ニッポン放送の元社長、亀渕昭信さんは言う。

「オールナイトニッポンのDJをしていた私に曲の売り込みに来てくれました。プロデューサー自身の来訪は珍しく、熱心でしたね」

 71年に南沙織を手がけ、郷ひろみ、山口百恵とアイドルを日本に次々と定着させた。ジュディ・オングの「魅せられて」(79年)でレコード大賞を受賞。久保田早紀の「異邦人」(79年)もプロデュース作だ。

 80年、21歳で百恵が引退。

「酒井さんは百恵の意思を尊重。殺到する取材の窓口役になっていた」(川瀬さん)

 その後も宮沢りえや裕木奈江の歌手活動を支えるなど第一線で活躍した。

 音楽評論家の反畑誠一さんは言う。

「残る歌を作ろうとしていた。慢心せずテーマを持つ姿勢は一貫していた」

 2年ほど前まで歌手のプロデュースを手がけた。昨年、文化功労者に選ばれ元気な姿を見せたが、プロデューサー生活60年を迎えた今年5月に体調を崩す。

 7月16日、85歳で逝去。

 昨年予定通り東京五輪が終わっていたら仕事を離れ、世界一周の船旅に出たいと願っていた。

デイリー新潮編集部

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