流通王・ダイエー「中内功」の罪と罰 V革作戦の立役者を追放、長男抜擢という悲劇

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83歳で死亡

 ダイエーより1年早い1982(昭和57)年、当時副社長の鈴木敏文を総指揮官として、イトーヨーカ堂は業務改革に取り組んだ。この“業革”の会議に伊藤は一度も出席しなかった。業革が成果を上げると、伊藤は社長の椅子を鈴木にバトンタッチして、経営の第一線から半歩退き、後継者と見られていた長男も退社させた。

 その後、コンビニエンスストア「セブン-イレブン」の生みの親である鈴木敏文に率いられたセブン&アイ・ホールディングスは、日本最大の流通グループに変貌を遂げる。

 経営危機に直面した2人のオーナーの対応の違いが大きく明暗を分けた。ダイエーは流通のチャンピオンの座から滑る落ち、「流通王」の尊称はスーパーの中内からコンビニの鈴木敏文に移った。

 2005年9月19日、中内功が亡くなった。83歳。戦後の流通業界に革命をもたらした、元流通王の死は、皮肉にも産業再生機構の手でダイエーの解体が推し進められている最中のことだった。中内の死で、日本を代表してきた巨大流通企業の息の根が止められた。

大邸宅も担保

 ダイエーグループは解体され、中内自身が格下とみなしていたイオンに売り渡された。

 ダイエーは2014年11月26日、発祥の地である神戸市の神戸ポートピアホテルで臨時株主総会を開催。ダイエーの株主にイオン株を割り当てる株式交換を提案し、賛成多数で承認された。交換比率はダイエー1株に対しイオン株0・115株。この時点でダイエーは、イオンの10分1の企業価値しかなかったことになる。

 一般株主が参加する最後の株主総会には680人の株主が出席した。東京証券取引所第1部に上場していたダイエー株式は12月26日付で上場廃止となった。

 2015年1月1日、ダイエーはイオンの完全子会社に組み込まれた。
プロ野球球団・福岡ダイエーホークスはソフトバンクの孫正義が買収し、福岡ソフトバンクホークスとなった。

 東京・田園調布と兵庫県芦屋市六麓荘、東西の高級住宅街に大邸宅を構えていたが、金融機関の担保に取られた。白亜の豪邸は砂上の楼閣だった。長野県・軽井沢の別荘やダイエー株式など、中内名義の時価数100億円といわれた資産はことごとく、大手銀行に借金のカタとして取り上げられた。

価格決定権を奪取した男

 1988(昭和63)年に創設した流通科学大学(神戸市)だけが残った。長男の中内潤が同大学の理事長である。

「キャッシュレジスターの響きは、この世の最高の音楽である」

 あまりにも有名な中内のこのセリフは、人間不信の裏返しだ。社長退任の記者会見で「40年間、楽しいことは何ひとつなかった」と発言して物議を醸したが、中内は事業家人生を貫いてきた飢餓体験の業の深さを噛みしめていたのかもしれない。肉親以外の人間を信じることができなかった人間不信と、煮えたぎるような憤怒は死ぬまで鎮まることはなかった。

 中内功が一代で築いた巨大流通グループ「ダイエー」は、産業再生機構の支援を受けて実質的に国家管理に置かれ、解体された。ダイエー本体は、一時、丸紅に売却されたが、流通のノウハウのない丸紅では立て直せなかった。迷走の果てにイオンが買収して完全子会社とした。

 中内の最大の功績は、価格決定権をメーカーから流通側に奪取したことである。中内の流通革命がなければ、いまや小売業の主役となったコンビニエンスストアやディスカウントストア、家電量販店、ドラッグストアが我が国に根づくことはなかったかもしれないのだ。

 2022年8月2日は、中内功の生誕100年にあたる。中内は毀誉褒貶相半ばする人物だったが、阪神・淡路大震災の時、中内・ダイエーが取った行動は、危機管理と商売のあり方の一つの規範となった。

 大震災を経て中内が到達した境地は、大災害との共生だったのかもしれない。

有森隆(ありもり・たかし)
経済ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒。30年間、全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書に『日銀エリートの「挫折と転落」――木村剛「天、我に味方せず」』(講談社)、『海外大型M&A 大失敗の内幕』、『社長解任 権力抗争の内幕』、『社長引責 破綻からV字回復の内幕』、『住友銀行暗黒史』(以上、さくら舎)、『実録アングラマネー』、『創業家物語』、『企業舎弟闇の抗争』(講談社+α文庫)、『異端社長の流儀』(だいわ文庫)、『プロ経営者の時代』(千倉書房)などがある。

デイリー新潮編集部

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