流通王・ダイエー「中内功」の罪と罰 V革作戦の立役者を追放、長男抜擢という悲劇

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国会議員に告発

 幸之助が矛先を向けたのは、松下製品を20%引きという当時とすれば極めて大きな値引き率で販売していたダイエーだった。松下本社(大阪・門真市)の勢力圏内にある神戸で大々的に安売りをされては、系列店に示しがつかないという“お家の事情”がある。

 幸之助はダイエーへの製品の納入を全面的にストップした。ダイエーのバイヤーたちは現金(キャッシュ)を懐に、松下の製品を求めて東奔西走。松下製品を買い漁った。安売りルート(バッタルートという)は次々と松下側に発見され、流通経路は潰れていった。

 中内が反撃に出たのは1967(昭和42)年のことだ。参議院物価対策特別委員会の議員団が兵庫県を視察した時、安売りを阻止する松下側の実態を分かってもらうために、中内はテレビの製造番号を特殊照射機で浮かび上がらせて実際に見せた。

 驚く国会議員たちに向かって「これはメーカーが安売りを阻止するため、全ての製品につけているものです。この番号を見れば、その製品がどの代理店、どこの問屋から出荷されるのか分かる仕組みになっています」と訴えた。

 中内の告発に驚いた国会議員の一行は、参議院で徹底的に糾明することを約束した。全国紙は、松下側がこれにどう対応するかに注目した。当時、松下電器の社長だった松下正治は、中内の主張をこう突っぱねた。

「あの番号は製品の品質を管理するためのもので、ヤミ再販に利用しているなどとんでもない誤解だ。品質不良の製品が見つかった時、その製品の流通経路や生産過程をチェックして、その原因を追及する手がかりにしている」

「価格破壊」で全国制覇

 1970年代はダイエーの黄金時代だった。1968(昭和43)年11月、日本初の駐車場のある郊外型ショッピングセンターを大阪・寝屋川市の香里にオープンした。これが小売業のモータリゼーションのはしりとなった。

 千林店のオープンからわずか15年目の1972(昭和47)年、小売業の王者・三越の売上高を抜き、ダイエーは日本一の小売業の座を射止めた。売上高3052億円をあげ、創業300年の歴史を誇る三越の売上(2924億円)を128億円上回った。

「小売りの王者」となる前年の1971(昭和46)年3月1日、大阪証券取引所の第2部に上場を果たした。スーパー業界初の上場だった。初日の商いは買いばかりで売買が成立せず、最終的には公開価格の450円を8割以上も上回る820円で初値がついた。

「スーッと現れてパーッと消える」と揶揄されたスーパーが株式を公開し、産業としての地位を確立したのである。

「次は売上高1兆円!」

 小売業初の年商3000億円を突破すると、中内は「チェーンストア元年」を宣言して、「70年代末には年商1兆円を達成する」とぶち上げた。

 とてつもない高い目標を掲げた中内は、1975(昭和50)年にコンビニエンスストアのローソンを開店したのを皮切りに、グループ内の企業群の立ち上げに狂奔する。一方で、スーパーの出店攻勢を続けた。

西友との戦争

 ダイエーは出店する先々で地元商店街の反対運動に遭った。

 首都圏で大量出店する“首都圏レインボー作戦”は必然的に、西友ストア(現・西友)を抱える西武流通グループや、当時勢力を伸ばしつつあったイトーヨーカ堂らライバルとの熾烈な出店合戦を繰り広げることになった。

 当時、東を代表していた西友ストアの地盤である東京・赤羽に、西の代表選手のダイエーが殴りこみをかけた。激烈な低価格競争は“赤羽戦争”と呼ばれた。埼玉・所沢、神奈川・藤沢、千葉・津田沼など、ダイエーが出店するたびに、それぞれの地の地域一番店と衝突し、その様は“戦争”と称されるほど苛烈を極めた。

 価格競争の果てに、「1円豆腐」や「3円バナナ」が登場。ついには無料進呈の目玉商品まで現れた。もはや意地と意地とのぶつかり合いでしかなかった。

 この頃、中内はこう言っている。

「オレの仕事にゴールはない。途中でペースをゆるめられるマラソンとは違うんだ。いつも1番で突っ走らなければ誰かにやられる。2番はビリと一緒なのだ!!」

 その言葉通り、ダイエーは凄まじいまでの出店攻勢で、その規模を拡大していった。

奇跡の復活「V革作戦」

 新規出店の際、中内はオープン前の店内巡視をするのが習わしとなっていた。品揃えが気に入らなければ、売り場責任者を怒鳴りつけた。モヤシが新鮮でないと、モヤシをザルごと頭からぶちまけられた野菜売り場の責任者もいた。中内は怒ると手がつけられないほどの激情家であった。

 スーパーという商売に賭けた中内功の執念は、不可能を可能にした。公約から1年遅れとなったものの、1980(昭和55)年2月、日本で初めて小売業界の売上高1兆円を達成した。流通革命の旗手は自らの手で、「流通王」の称号を力で奪い取ったのである。

 1兆円達成――。業界に金字塔を打ち立てた中内は、次なる目標として4兆円構想を公表した。名実ともに流通業の覇者となるには、小売業の華である百貨店への進出が必要不可欠と考えた。

 1980年3月、フランスの百貨店「オ・プランタン」と提携し、「オ・プランタン・ジャポン」を設立した。とはいえ、スーパーと百貨店は商品の品揃えまったく違う。百貨店の問屋ルートの確保が課題となった。競争力のある商品を提供してくれる有力な問屋が欲しかった。

 百貨店経営のノウハウを得るという名目で、81(昭和56)年1月、高島屋の株式の10・7%を取得し、提携を迫った。だが、乗っ取りを警戒する高島屋は首を縦に振らなかった。高島屋株の買占めは、東急グループの盟主で東急百貨店会長の五島昇から「公家と野武士の戦い」と評された。言うまでもなく、公家は高島屋で、ダイエーは野武士である。

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