流通王・ダイエー「中内功」の罪と罰 V革作戦の立役者を追放、長男抜擢という悲劇
父親は鈴木商店OB
社会が落ち着きを取り戻し、闇屋稼業から足を洗った。
「僕はいちばん儲からんスーパーを選んだ。他の事業に心がまったく動かなかったといえば嘘になるが、でも、それではあまりにも夢がないやろ。それと、死んだ戦友に対して、なにか後ろめたさがあってね」
雑誌の対談で中内は、こう語っている。
ここで中内の略歴を述べておく。中内は1922(大正11)年8月2日、大阪府西成郡伝法町(現・大阪市此花区伝法)に父・秀雄、母・リエの長男として生まれた。父は大阪薬学専門学校(現・大阪大学薬学部)を卒業後、商社の鈴木商店(日商岩井の前身。現在の双日)に入社した。
鈴木商店は、大番頭の金子直吉が買収を重ね、一時は売上高が三井物産や三菱商事を上回る巨大商社となった。神戸製鋼所、帝人、IHI、サッポロビール、日本製粉など、錚々たる企業の母体となった総合商社だ。
秀雄は退社後、大阪で小さな薬屋「サカエ薬局」を始めた。母は神社の宮司の娘であった。祖父・栄は高知県矢井賀村(現・中土佐町)の士族の生まれ。大阪医学校に学び卒業後、神戸で眼科医となった。
小売業に転身
「サカエ薬局」は大通りから逸れた脇道にあり、立地には恵まれなかった。生活は貧しく、その日その日の米を買うのが精一杯だった。
中内は神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)を経て、同県立神戸高等商業学校(現・兵庫県立大学)に通った。1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が勃発したことにより繰り上げ卒業。商業学校生にもかかわらず、簿記も会計も成績が悪かった。大学へ行けば兵役を免れるという理由で神戸商業大学(現・神戸大学)を受験したが失敗した。51人中落ちたのはわずか3人。その中に中内は入ってしまった。
仕方なく翌42(昭和17)年4月、日本綿花(のちのニチメン。現在の双日)に入社したものの、その年の12月に召集を受け、43(昭和18)年1月に出征した。家族や近所の人が集まり、軍服姿の中内を見送った。中内はいやいやながら万歳三唱に和した。
1957(昭和32)年4月、末弟の力(つとむ)と一緒に、薬品メーカー「大栄薬品工業」(のちのダイエー)を設立した。
会社を立ち上げた時点では薬品メーカーだったが、35歳の時、小売業に転進した。家賃とその土地の集客力を天秤にかけて、大阪の京阪電鉄・千林駅前の商店街に店を出すことを決めた。
「主婦の店ダイエー」
同年9月23日、13人の仲間と共に30坪の店を開いた。当時「主婦の店運動」が始まっており、屋号を「主婦の店・ダイエー薬局」とした。ダイエーは大阪の「大」と祖父の名前の「栄」を合わせた「大栄」を、当時としては珍しいカタカナ書きにした。
取り扱うのは、薬品、化粧品、日用雑貨。目玉商品は薬で定価の3~4割引。薄利多売の商法である。初日の売上高は28万円。損益分岐点が日商6万円だったから、予想外の良い結果となった。
創業当時の社員のひとりは「その頃から『全国制覇をやるんだ』といっていて、大きなことを言うなぁと内心驚いた」と語っている。
千林店でのオープンの翌年の58(昭和33)年12月、神戸・三宮にチェーン化第1号店を開いた。この時から、三宮がダイエーの本拠地となる。
中内は既成概念を次々と打ち破り、価格破壊を仕掛けていった。
中内の安売り哲学は、「いくらで売ろうと勝手」というインパクトのある言葉に込められている。それまで価格決定権は、メーカーに握られていた。中内は「価格はわれわれがつくるんだ」「消費者がつくるんだ」と連呼し、それを実行に移した。
中内は、消費者主権の考え方を背景に、寡占化するメーカーに挑んだ最初の流通人だったといえる。「暗黒大陸」と呼ばれた流通の世界の部厚い扉をこじ開ける流通革命である。流通革命の一丁目一番地が「価格破壊」であった。
松下幸之助との戦争
価格破壊の革命児として中内の名前が全国に轟いたのは、松下電器産業(現・パナソニック)の価格カルテルに異議を申し立て、“経営の神様”と称された松下幸之助に戦いを挑んだからだ。松下との対立は「30年戦争」と呼ばれた。
1960年代、家電製品の花形はカラーテレビだった。中でも、ナショナルブランドの人気は高かった。中内が松下製品の安売りを開始したのは、東京オリンピックが開幕した1964(昭和39)年10月のことである。安売りされたナショナルのカラーテレビに客が殺到した。
松下電器はこの年の7月、熱海にナショナル系列の販売会社・代理店の代表、およそ200人を集めた。オリンピック景気の反動で赤字が続出した販社から、この席で松下本社の経営陣に痛烈な批判が浴びせられた。幸之助は一地区一販社体制を打ち出し、「(系列店に対して)リベートをはじめとする経済的な優遇措置を約束する代わりに、松下が提示する価格を維持してくれ」と訴えた。これが世に言う「熱海会談」である。
代理店と販売店(ナショナルチェーン)の再建を約束した会長の幸之助は、営業本部長代行に復帰し営業の陣頭指揮を執った。
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