平均年収1700万円となった後発不動産会社の戦略――西浦三郎(ヒューリック代表取締役会長)【佐藤優の頂上対決】

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 銀行の店舗ビル管理会社だったヒューリックは、首都圏の「駅徒歩5分以内」の中規模ビルに特化して不動産開発を行い、十数年で大手3社に迫るほどに成長した。高収益体質で待遇もトップクラスになったが、今後、それをいかに維持していくのか。10年後を見据えた新たな事業計画の全体像。

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西浦 少し前にこの欄には建築家の隈研吾さんが出ていましたね。

佐藤 はい。「週刊新潮」11月11日号です。

西浦 弊社は隈さんに銀座のビルを設計していただいたり、主催する学生コンペの審査委員長を務めてもらうなど、親しくお付き合いさせていただいているんです。

佐藤 そうでしたか。隈さんは魅力的な人ですよね。あれほど世界的に有名な大建築家でありながら、偉ぶるところがない。

西浦 著名な建築家だと、ほとんどの方は自分の作品を作るという感じになりますが、隈さんの場合、「これは天井が高すぎて掃除が大変だ」と言うと、「じゃあ、設計をちょっと変えてみましょうか」と、直してくれるんです。

佐藤 隈さんは威張りませんからね。それに小さな建築を目指して、巨大なタワービルには否定的ですから、中規模のオフィスビルに特化して事業展開されているヒューリックにはぴったりかもしれないですね。

西浦 そうかもしれません。

佐藤 ヒューリックはこのコロナ禍にあっても過去最高益を出されるなど、目覚ましい成長ぶりですね。

西浦 今年は株式上場して14年目になりますが、おかげさまでずっと増益増配を続けてこられました。格付けもようやくA+(ポジティブ)になって、AAが狙えるところまできた。収益性は経常利益率で20%以上ですし、1人当たり経常利益で5億円以上あります。これは恐らく上場企業でもトップクラスだと思います。

佐藤 本日は、その快進撃の舞台裏をおうかがいしたくて参りました。西浦さんは、富士銀行出身ですね。私の父も富士銀行だったんです。設備担当で電源管理の仕事だったのですが、1980年まで勤めていました。

西浦 私の入社は1971年ですから、ちょっと重なっていますね。

佐藤 ここに移られたのは何年ですか。

西浦 富士銀行がみずほ銀行になった後の2006年のことです。私はここへ不良資産を消すためにやってきたんですよ。

佐藤 どういうことですか。

西浦 弊社は旧富士銀行の店舗ビルや社宅などを管理する「日本橋興業」として1957年に設立されました。ですがバブル崩壊後の1990年代に、銀行が不良債権処理の原資を作るため、所有するさまざまな不動産を融資とセットで引き受けさせたんですね。

佐藤 バブルの後始末に使われたわけですね。

西浦 銀行は、創業者の安田善次郎時代に取得したような簿価ゼロみたいな不動産を時価で売りました。それを融資して買わせたのですが、日本橋興業は収益弁済できず、金融庁から問題先になっていたんです。

佐藤 借入金が巨額だったのですね。

西浦 ええ。それで「何の条件もつけないから、とにかく問題のない会社、良い会社にしてほしい」と言われて、やってきたんです。

佐藤 副頭取でしたから、もっと大きな会社にいくこともできたのではないですか。

西浦 そういう選択肢があったかわかりませんが、ナンバー2、ナンバー3になるくらいなら、小さな会社でいいからトップになりたいという気持ちはありましたね。

佐藤 そしてビル管理会社から不動産ディベロッパーに様変わりさせました。新規事業にも進出し、「第二の創業」という感じです。ベンチャーと言ってもいいかもしれない。

西浦 いやいや、着実にやってきただけで、ベンチャー的な部分はないですよ。借入過多を解消するだけなら、保有する物件を売ればいいんです。でもそれだと雇用が守れない。だから建て替えや物件購入で賃貸面積を増やして、稼ぐ力をつけていくしかなかった。追加の借り入れは難しい状況でしたから、まずは会社を上場させて、マーケットから資金調達することにしたんですね。それが最初にやったことです。

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