ハンク・アーロン 後楽園球場で実現した王貞治との本塁打競争 直接対決の結果は?【2021年墓碑銘】
「喜びよりもやっと終わった」
メジャーリーグでベーブ・ルースの本塁打記録を破ったハンク・アーロン氏。その彼の記録を超え、本塁打記録世界一になったのが王貞治選手だった。アーロン氏が来日してから深まったというふたりの交友を振り返る。
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近頃の子供は尊敬する人に漫画の登場人物を挙げるが、1970年代には、王貞治選手が真っ先に浮かぶ存在だった。
王選手はメジャーリーグのハンク・アーロン氏が持つ本塁打の世界記録755本に着実に迫り、77年9月、ついに抜く。王氏の偉業を語るにはアーロン氏は絶対に欠かせず、日本でも広く記憶される名前となった。
アーロン氏にも乗り越えるべき大物がいた。メジャーで714本の本塁打記録を持つベーブ・ルース氏だ。
メジャーリーグ評論家の福島良一氏は言う。
「ルース氏は、国民的英雄で野球の神様のような存在でした。その記録を更新した者は白人選手でも非難されたことがある。黒人のアーロン氏が超えようとは何事かと脅迫まで受けたのです」
温厚なアーロン氏に、年間90万通もの手紙が届いた。その多くが人種差別の罵りで、殺害や家族への危害をほのめかす内容まであった。
「報道陣は好意的で、ファンの大半は人種など気にせず、メジャーの歴史を書き換える姿を見たい一心でした。熱狂のなか、当人は黙々と本塁打を放ち、記録に迫りました」(福島氏)
74年4月、不滅の大記録を破った。時に40歳。
「喜びよりもやっと終わった、という気持ちだったそうです」(福島氏)
「不屈の静かな闘志が感じられた」
34年、アメリカ南部アラバマ州モービル生まれ。父親は造船会社で働いていた。
黒人だけがプレーするリーグを経て、54年、ブレーブスでメジャーデビュー。56年には首位打者、57年は本塁打と打点で2冠王に。同年、チームのリーグ優勝を決めた決勝本塁打を放った。この一打が一番印象に残っているという。
日本初のメジャーリーガーである村上雅則氏は、60年代半ばに投手として対戦。
「手元にある記録では、その数4回です。フォアボールが2回。三振が1回。もう1回もアウトで、安打は打たれていません。チームメートから、あいつは凄いから気をつけろと言われて、長打を警戒して投げたおぼえがあります」
本塁打の記録を塗り変えた74年のシーズンオフに来日。後楽園球場で王氏と本塁打競争を行った。世界一と日本一の直接対決だ。
「穏やかな顔が忘れられません。本国以上に温かく迎えられ大切にされたと後に語っています」(福島氏)
結果はアーロン氏の10本に対し王氏は9本。これを機にふたりは親しくなった。
王氏とともに打線の主軸を担っていた張本勲氏は振り返る。
「アーロン氏には不屈の静かな闘志が感じられましたね。謙虚で誠実な互いの性格が合ったと思う」
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