鹿島建設と鹿島家の「婿取り作戦」 70歳の「新社長」誕生で、女系家族による世襲経営に幕

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妻が鹿島の社長に就任

 卯女は幼少の頃から父に連れられて工事現場を回っており、若くして鹿島組の経営に参画していた。単なる令嬢ではなかった。

 結婚後も守之助は、鹿島へは出社しなかった。およそ8年もの間、衆院選に立候補しては落選したり、学位論文を執筆して法学博士になるなどして、土建屋とはまったく関係のない生活を送った。

 1936(昭和11)年、守之助は取締役として鹿島組に入った。1938(昭和13)年、精一が会長に退き、守之助が第4代社長(1938~1957年)に就任した。博士号を持つ土建屋の社長が日本で初めて誕生した。

 戦後の1947(昭和22)年12月、鹿島組は社名を鹿島建設に変更。守之助は参議院議員として政界に進出。57(昭和32)年、国務大臣就任を機に会長に退き、妻の卯女が第5代社長(1957~1966年)になった。大手ゼネコン、初の女性社長だった。

 卯女が社長時代の61(昭和36)年に東証・大証に上場。65(昭和40)年には日本初の超高層ビル、霞が関ビルを着工。超高層ビル時代の幕を開けた。

 68(昭和43)年4月、三井不動産霞が関ビルは完成。「土木の鹿島」は一躍、建築でも一頭地を抜き、全国各地で超高層ビルを手がけることになる。

 守之助は日本初の超高層ビルである霞が関ビルを完成させるなど、鹿島を大躍進させ、“中興の祖”と呼ばれた。守之助・卯女夫妻は日本の超高層ビル建設の先鞭をつけた。

一族間の継承が続く

 守之助と卯女は1男3女をもうけた。鹿島家は、初めて昭一という嫡男に恵まれたわけである。だが、守之助は岩蔵や精一以上に熱心に、優秀な婿取り作戦を展開した。

 長女の伊都子(いとこ)の婿は渥美健夫(あつみ・たけお)。大阪商船取締役だった渥美育郎(いくろう)の長男。東京大学法学部政治学科を卒業後、商工省に入り、経済安定本部にいた通産官僚だ。役人を続けさせることを条件に結婚させた。いつもの手である。「通産省はあなたがいなくても困らないが、鹿島はあなたを必要としている」。この守之助の殺し文句で、結婚3年後に健夫は鹿島入りした。

 二女のよし子は、初代経団連会長の石川一郎の六男・石川六郎に嫁いだ。六郎は東大工学部土木科を卒業し、運輸省に勤めた。運輸省から国鉄に転じた際、叔父の親友だった財界人から、よし子との結婚話が持ち込まれた。石川は即座に断った。工事を発注する官庁にいる自分が、受注する側の大手建設会社の経営者の娘と結婚すれば役人生活に汚点を残すと考えたからだ。だが、それから3年間、守之助はあらゆる伝手を通じて、石川に働きかけた。社業に関与させないからと、いつもと同じ“空手形”を切って娘婿に迎えたが、結局は鹿島に取り込んでしまった。

遂に長男が誕生

 三女の三枝子(みえこ)は、守之助の後輩の外交官、平泉渉(ひらいずみ・わたる)を婿にした。東大出の官僚である平泉は、戦前、皇国史観を説いた国粋主義の歴史学者・平泉澄(きよし)の息子である。守之助自身は参議院議員となったが、その後継にしたのが平泉で、婿にした後、政界入りさせた。

 第5代社長の卯女の後を継いで、6代・渥美健夫(1966~1978年)、7代・石川六郎(1978~1984年)の2人の婿は、順番に社長になった。

 同族間のたらい回し人事に向けられる経済界の視線は厳しかった。だが、鹿島家はビクともしなかった。守之助は1975(昭和50)年12月、75歳で他界した。卯女は1982(昭和52)年3月、78歳で世を去った。

 鹿島家の婿取り作戦は、ここで一段落した。それぞれの家に長男が誕生したからである。

 その後、東大建築科出身の鹿島家の嫡男・昭一が第8代社長(1984~1990年)となった。

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