鹿島建設と鹿島家の「婿取り作戦」 70歳の「新社長」誕生で、女系家族による世襲経営に幕

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娘婿は逓信省官僚と外交官

 最初の女婿は葛西精一(かさい・せいいち)。1875(明治8)年、岩手県は旧盛岡藩士の名家・葛西家の長男として生まれた。盛岡中、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部を卒業、逓信省鉄道作業局の官僚になった。岩蔵の長女・糸子と結婚し婿養子となり、鹿島組副組長に就いた。

 精一は類まれな秀才だったことから岩蔵が将来を見込んで学費を出し、東大に残れといわれたのを強引に婿にしたとされている。

 1912(明治45)年、岩蔵が亡くなると、精一は鹿島組の組長になった。精一は17年の歳月と多くの犠牲者を出しながら、1934(昭和9)年に世紀の難工事といわれた丹那トンネル(東海道本線・熱海駅―函南駅)を完成させた。ところが、彼もまた嫡男に恵まれなかった。

 そこで白羽の矢を立てたのが、当時、少壮の外交官だった永富守之助(ながとみ・もりのすけ)である。

 守之助は1896(明治29)年2月、兵庫県揖保郡半田村(現・たつの市揖保川町)の大庄屋の四男に生まれた。生家の永富家は2000余坪の宅地に、母屋だけで200坪もある旧家。頼山陽(らい・さんよう)の流れをくむ漢学者の父・敏夫は教科書に載りそうな人格者だったという。

船旅で運命の出逢い

 重要文化財に指定された永富家の屋敷の2階の子供部屋には、明治期にはモダンだったと思われる小さな勉強机と椅子が置いてある。恵まれた環境で育った守之助は、京都の第三高等学校から東京帝国大法学部政治学科に進み、卒業後は外務省に入った。

 1922(大正11)年5月、気鋭の外務官・守之助はベルリンの日本大使館駐在の辞令をもらい、米国経由で欧州に向かう。ニューヨークでベリンガリヤ号に乗り、デッキから自由の女神を眺めていると、肩を叩かれた。振り向くと、鹿島組組長の鹿島精一と取締役の永淵清介(ながぶち・せいすけ)が立っていた。乗客の日本人は3人だけ。

 すぐに打ち解け、15日あまりの船旅を楽しんだ。異郷の地で3人はすっかり意気投合した。この時、精一は洗練された物腰の永富守之助に強く惹かれた。

 この航海で精一は守之助を未来の鹿島組を託す男と見込んだ。

《1925(大正14)年1月。東京日日新聞に「新貴族論」という記事が載った。筆者はベルリンの日本大使館に勤務する永富守之助。門閥貴族や官僚、退廃した資本家ではなく、新しい指導者層「新貴族」出現の必要を説いている。「新貴族」になるのは、「士族と地方の地主階級ではないか」と記す。まさに自分自身のことだ》(「20世紀日本の経済人II」日経ビジネス人文庫)

6年越しのラブコール

 3年間のドイツ勤務を終えた守之助は1925年7月、本省に戻った。

 ある日、「海外旅行中にお世話になったお礼に」と、突然、鹿島組の永淵が訪ねて来た。精一の長女・卯女(うめ)との縁談を持ち込んできたのである。もちろん守之助は、婿養子になる気などなく断った。永淵は断られても、断られても外務省を訪れ、説得を続けた。そこで守之助は永淵に結婚の条件を出す。

「私は将来、政治家になりたい。その時は、政治資金を出していただけますか」

 縁談に応じるというより、むしろまとまらなくするための無理難題のはずだった。しかし、永淵はまったく動じない。「結構です。鹿島の仕事には政治が必要です」と応じた。それでも守之助は、ライフワークである外交史と国際政治の研究を捨てる気にはなれなかった。永淵は「結婚後も鹿島の仕事をしなくてもいい」という条件を出して、ようやく見合いのオーケーをとった。ところが、卯女に会った途端、守之助のほうが一目惚れしてしまう。

 1927(昭和2)年、守之助は卯女と結婚して鹿島家の婿養子に入った。精一は船中で出会って以来、およそ6年間にわたって守之助を口説き続けたわけだ。それはまさに婿取り大作戦であった。

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