鹿島建設と鹿島家の「婿取り作戦」 70歳の「新社長」誕生で、女系家族による世襲経営に幕

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本家が世襲経営に幕引き?

 元社長で取締役相談役の鹿島昭一は2020年11月4日、心不全のため死去した。享年90。創業家5代目。入社以来67年間、取締役を務め、84年から90年まで社長の座にあった。

「日刊建設工業新聞」(2020年11月12日付1面)は「建築をこよなく愛す」のタイトルで鹿島昭一を追悼した。

《元社長で取締役相談役の鹿島昭一氏が(2020年)11月4日、心不全のため東京都内の病院で死去した。90歳だった。1953年に東京大学工学部建築学科を卒業後、父が社長を務める鹿島に入り取締役に。54年からハーバード大学大学院建築科に3年留学(建築学修士)した後、建築・設計分野の担当に就いた。59年、代表取締役副社長、78年に同副会長を経て84年、社長に就任。90年に再び同副会長になり、94年から取締役相談役を務めていた》

《リッカー会館は昭一氏が米国留学から戻り、本格的に設計に取り組んだ最初の作品。ダブルスキンのファサードが特徴で、建物外壁の外にバルコニーをとり、そこにカーテンウォールを設置した。昭一氏は「当時、カーテンウォールは米国では普及していたが、日本は工業化されていなかった。そこで可能な限り本格的なカーテンウォールを追求した」。いまや超高層建築の外装で使われるカーテンウォールはこの建物から始まったとも言える》

《建築を文化として愛し、先進的な技術に果敢に挑んできた昭一氏。社員と共に手掛けた数多くの建築はいまでも息づいている》

 日本経済新聞も2月21日付けの夕刊で鹿島昭一の「追想録」を掲載した。

《米ハーバード大大学院で、合理性と機能美を追求するモダニズム建築を学んだ》

《海外出張する際には自ら調べて現地の美術館に足を運び、展示された作品に込められた意味を同行者に解説してみせるこだわりようだった。歴史や宗教、芸術を通じて得た人間への洞察力は経営を判断する支えでもあった。「本当は建築家に専念したかった」。周囲にはそう話していたという

 建築家らしく、昭一は合理性を重んじた。談合を筆頭とする“土建屋体質”を憎んだ。

洋風建築から鉄道へ

 更に昭一は世襲も嫌った。分家の渥美や石川の社長就任には最後まで首を縦に振らなかった。先代たちが、営々と受け継いできた同族経営に幕を下ろした。

 鹿島は女系家族である。政官財界の人脈ネットワークを見ると、鹿島家ほど広く、深く、根を張っている一族はない。最後にはキングメーカーにまでなった元首相の中曽根康弘と結び付いた。

 鹿島家が壮大な政経閨閥を作り上げたのは、3代にわたる婿取り作戦の成果である。

 鹿島は1840(天保11)年、鹿島岩吉が江戸中橋正木町(現在の京橋)で「大岩」を創業したのが始まりである。岩吉は1816(文化13)年、武蔵国入間郡小手指村(現・埼玉県所沢市)の豪農の二男として生まれ、江戸に出て大工修業をし、24歳の時に棟梁の株を得て独立した。幕末には横浜に進出、英国一番館(外国商館)などの洋風建築を手がけ「洋風の鹿島」と謳われた。

 1880(明治13)年、岩吉の死去にともない息子の岩蔵が2代目を継いだ。岩蔵は工部省鉄道頭(かしら)・井上勝の知遇を得て鉄道工事を請け負う。全国に延びる鉄道建設の波に乗って発展、「鉄道の鹿島」の名を広め、今日の基礎を築いた。

 岩蔵は男子に恵まれなかった。ここから、鹿島家の婿取り作戦が展開されることになる。

 鹿島家の婿取りで共通しているのは、いずれも名家で、東大出のエリート官僚を迎え入れていることだ。

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