出光興産、創業者「出光佐三」が掲げた民族経営、「日章丸事件」と裁判所での歴史的大演説
無法者、一匹オオカミ、横紙破り、海賊
そのため「馘首してはならぬ」と言明した。中国などの外地から800人もの従業員が引き揚げてくる。全員を引き受けたら“人件費倒産”してしまう。幹部たちは「大量解雇はやむを得ません」と反論した。
これに佐三は激怒した。「君たち、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。会社を支えるのは人だ。これが(当社の)唯一の資本であり今後の事業を作る。人を大切にせずして何をしようというのか」
人間尊重の大家族主義の経営を唱えた佐三の経営哲学の核心がここにある。
出光佐三は1981(昭和56)年3月7日、急性心不全のため他界した。95歳。経済専門紙はこう書いた。
《無法者、一匹オオカミ、横紙破り、海賊……。張られたレッテルは数知れない。それは消費者不在のカルテルに加わらぬがゆえの誹謗中傷だった。佐三は消費者利益の増進を使命と考え、生産者と消費者を直結する「大地域小売業」の旗のもと、世界を舞台に事業を進めたのだ》
《「民族資本、民族経営」を掲げた。だが、閉鎖的なナショナリズムとは無縁で、広い視野と人間尊重の経営は内外で幅広い共感を呼んだ。福岡県・門司の石油商に過ぎなかった出光商会を「世界のイデミツ」に押し上げた原動力はそこにあった》(「20世紀日本の経済人」日経ビジネス文庫)
株式を公開し、資本と経営を分離
時代は移って2000年、出光は大家族主義の旗を降すことになる。
出光は有利子負債1兆7000億円を抱え、倒産の危機に瀕していた。再建を巡り一族が分裂。派閥抗争に突入した。
発端は株式上場だった。同年5月、7代目社長の出光昭が外部資本の受け入れを表明、「数年後には上場も検討する」とぶち上げた。これに対して会長の出光昭介が真っ向から反対。上場を推進する社長派と、反対の会長派に分かれる内紛劇に発展した。
会長の昭介は、創業者・佐三の長男で第5代社長を務めた。出光の株式の4割を支配する唯一の個人株主だった。出光家本家直系のオーナーである。
社長の昭は、佐三の末弟で2代目社長だった出光計介の次男。出光家最後のプリンスとして1998年に社長に就いた。傍流なので出光の株式は1株も持っていなかった。
社長派に付いたのは、専務に昇格したばかりの天坊(てんぼう)昭彦。増資と株式上場の青写真は、天坊がメインバンクの住友銀行(現・三井住友銀行)と東海銀行(現・三菱UFJ銀行)の意向を受け、周到に準備した。
銀行の後押しを受けた社長派が勝利し、2000年から外部資本を受け入れ、出光興産は2006年10月に東証1部に上場した。同族色が薄まったことを見届けた昭は、経営から手を引いた。これで出光興産には、出光家出身の取締役は一人もいなくなった。
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