出光興産、創業者「出光佐三」が掲げた民族経営、「日章丸事件」と裁判所での歴史的大演説

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大恩人、日田重太郎

 民族主義者らしい個性を発揮した出光佐三は、1885(明治18)年8月22日、福岡県宗像郡赤間村(現・宗像市赤間)に生まれた。祖先は宇佐神宮(大分県宇佐市)の大宮司。江戸時代に一族の出光良元が赤間に移り住み、赤間出光の祖となったとされる。父・藤六は藍問屋「紺屋」を営んでいた。

 福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)から神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進んだ佐三は、1909(明治42)年に同校を卒業すると個人商店に就職した。神戸高商といえば当時、東京高等商業学校(現・一橋大学)と並び称される高等商業教育の名門校だ。卒業した学友のほとんどは大企業・大銀行に就職していた。

 にもかかわらず佐三は、店主含めて従業員わずか6人という酒井商店に丁稚奉公に入ったのである。学友たちからは変人扱いされた。「高商を出ながら丁稚奉公とは、学校の面汚しだ」と非難する者までいたが、佐三は平然と聞き流した。

 2年後に独立。1911(明治44)年2月、郷里に近い門司(現・北九州市門司区)で日本石油の特約店として、石油業の出光商会を開業した。佐三、25歳の時である。

 開業資金を出したのは、日田重太郎だった。口止めされていたため、長い間、秘匿していたが、佐三が晩年、日田が資金スポンサーだったことを明かした。日田は大恩人だった。

人が唯一の資本

 日田は佐三より9歳上。兵庫県・淡路島の資産家の養子で、神戸高商時代の佐三に息子の家庭教師を頼んだ縁で知り合った。「尊ぶべきは金や物より人間だ」とする佐三の人間性に惚れた日田が、6000円(現在の9000万円相当)の大金を「貸すのではない。貰ってくれ」と申し出た。

 資金提供するにあたって、日田は3つの条件をつけた。第一は、従業員を家族と思い仲良く仕事をしてほしい。第二は、自分の主義主張を最後まで貫いてほしい。第三は、自分が金を出したことは他言無用、というものだった。

 1940(昭和15)年、儲けは二の次で出光興産を設立。会社の基本方針に人間尊重を謳い、「出勤簿なし、定年なし、労働組合なし」の三無主義を掲げた。生涯、国際石油資本に頼らぬ自主独立の精神を貫いた。日田の言葉を守ったのである。

 敗戦の日から1カ月たった1945(昭和20)年9月15日、佐三は在京の店員(社員)を集め、「愚痴をやめよ。世界無比の三千年の歴史を見直せ。そして今から建設にかかれ」と訓示した。自主独立は佐三の持論である。自立して国家と国民、人類の幸福のために尽くせと檄を飛ばした。

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