石原伸晃氏、内閣参与起用の波紋 岸田首相とやっている「ドライマティーニの会」って何?
岸田首相とは同い年
《石原伸晃氏は、慶大文学部卒業で、「子供のころから政治家を志していた」と言い、「国会に声が反映されていないサラリーマンや商店主ら、また二十、三十代の人たちを代弁したい」と抱負を語る。/当初、同氏は、自民党から立候補しようと、安倍(註・晋太郎)派の門をたたいた。しかし、同派は、東京四区(註・中選挙区時代)には同党の現職が二人おり、「東京九区なら応援するが……」と難色を示した。そこで、政治部記者の経験から、自民党の中では若手代議士の声が党の上層部に届かない現状にも怒りを覚え、無所属で出馬することを決めたという》(「読売新聞」89年8月29日付)
なかなか男気のある発言だ。すでに裕次郎氏は亡くなっていたが、選挙には石原軍団の応援もあって、得票数2位で当選。父子同時当選を果たした。
「ところが、当選するとすぐに自民党入りし、安倍派(清和政策研究会)に入会しました。慎太郎さんも安倍派でしたからね」
結局、長い物に巻かれる人なのだろう。
「93年の衆院選では自民党公認で出馬して再選。この時、同じ自民党候補として初当選したのが岸田さんでした」
石原氏と岸田首相は昭和32年生まれの同い年だった。
ドライマティーニの会
「安倍派が三塚派になり、伸晃さんは独自の政策を立案する若手議員、いわゆる“政策新人類”の一人として注目されていました。ところが、98年の自民党総裁選に三塚派が小泉純一郎さんを立てたことで分裂。伸晃さんは脱会を宣言し、翌99年に加藤派(宏池会)に移りました」
すでに父・慎太郎氏が代議士を引退(99年に都知事)していたこともあったかもしれない。加藤派には岸田氏がいた。そして、2000年11月、いわゆる“加藤の乱”が勃発する。
「当時の森喜朗内閣に対して、野党の不信任案提出の動きに、加藤派の会長である加藤紘一さんが同調しようとしたものです。これについていこうとしてのが、加藤派の若手4人、伸晃さんに岸田さん、塩崎恭久さん(71)、根本匠さん(70)でした。血判状まで差し出した彼らは、衆院本会議を前に伸晃さんの事務所に集まり、彼が作ったドライマティーニで“固めの杯”を交わしたといいます。結局、加藤さんが折れ、腰砕けに終わったことで、4人は派閥を離れることになりました。ただ、4人の“ドライマティーニの会”は少なくとも、昨年までは年1回のペースで開催されていたそうです」
“ドライマティーニの会”といえば聞こえはいいが、いわば敗残兵の飲み会といったところか。
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