菅原文太を激怒させた女性週刊誌の“スクープ記事” 「目には目を、歯には歯で、暴力でいくしかないわけです」 「仁義なき戦い」外伝〈6〉

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 高倉健の衰退とほぼ同時に、菅原文太の時代が始まった。主演作が増え、1本当たりの出演料は千万単位となる。1973年に始まった「仁義なき戦い」シリーズは社会現象と言っていいほどの人気を博し、キネマ旬報が発表した主演男優賞、脚本賞、監督賞を総なめした。だが、シリーズ第5作目「仁義なき戦い 完結篇」の封切り直前に出た一本の記事に、文太は激怒する。そこには〈子ぼんのうな父――菅原文太の素顔〉とあった。貴重な証言と膨大な資料を重ね合わせて綴られた傑作評伝『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子著)から、揺れるスターの胸の内を紹介する。

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嫉妬の対象

 73年に「仁義なき戦い」シリーズは3本製作されているが、文太はその間にも「まむしの兄弟 刑務所暮し四年半」(監督・山下耕作)、「まむしの兄弟 恐喝三億円」(監督・鈴木則文)、「やくざ対Gメン 囮」(監督・工藤栄一)、「山口組三代目」(監督・山下耕作)、「海軍横須賀刑務所」(同)の5本に出演している。もはや高倉健に当たっていたスポットライトを奪ったかたちであり、周囲の見る目も変わってきた。

 一方では、嫉妬の対象にもなっていた。社内で「文太が生意気になりやがった」「最近、態度が横柄だ」「あいつは変わった」という声も聞かれるようになった。

 文太と「仁義なき戦い」「仁義なき戦い 頂上作戦」の2本で共演した俳優の三上真一郎は、松竹時代から文太と親しい関係だった。芸歴は長く、笠原和夫が1作目の「仁義なき戦い」で三上が演じた新開宇市を見て「自分が脚本に書かなかった人物背景を見事に演じてくれた」と感心した俳優でもある。

 松竹を解雇されてフリーになった三上はシリーズ4作目「頂上作戦」(74年)の撮影中だった文太を、こう回想している。

 その日は深作欣二監督にしては珍しく、撮影が定時で終わり、夕食後にアフレコ(撮影後、画像に合わせて音声を録音すること)が行われる予定だった。俳優たちはアフレコ・ルームに集合して、開始を待った。だが、予定時間がとうに過ぎても、主役の文太が現れない。

〈梅宮辰夫、田中邦衛、東映専属の俳優も含めておよそ三十人ほどは、することもなく椅子に座り主役のお出ましを待つしかない。そんななか、東映では鶴田浩二より古い梅宮辰夫が製作部に向かって、「おい! 文太はどうしたんだ? 早く呼んでこい!」イライラした様子である〉(「チンピラ役者の万華鏡」(「映画論叢」12号))

 連日の深夜撮影で、誰もが疲れている。梅宮が怒るのは当然だが、文太がいなければアフレコはできないので、我慢して待つより他なかった。

〈やっとお出ましとなった主役は、ほんのりどころか明らかに一杯聞し召して、爪楊枝を銜(くわ)えておいでだ。それでは始めましょうとマイクの前で主役を囲み、テストが始まった〉(同)

 ところが、1回目のテストが終わったあと、文太はミキサー室へ行き、スタッフとなにやら話し合いを始めた。俳優たちは元の椅子に戻り、再開を待った。しばしあり、助監督の声が響いた。今夜は文太の出ていないシーンだけのアフレコにしてほしい、という。

〈おやおや主役は体調が可笑しくなったか、それとも飲み量が足りないのか? 唖然呆然とする我々を一瞥することもなく、明るいベージュのカシミア・コートを肩にかけた主役は、製作部を従え颯爽と出て行った。(中略)外から流れてくる冷たい風に向かって堂々と歩いて行く菅原文太。その背中には、主役は俺だぜという気構えが漂っていた〉(同)

 そこには、約12年前、7歳下の三上の前で「松竹は冷たい」「約束が違う」と嘆き、大粒の涙を流した男はいなかった。

 のちに文太は、高倉健と鶴田浩二を例に出し、「人気はその時のもので、永遠に続くものではない」と語った。賢明な文太は、自分もまた同じ命運にあることを予想していただろう。人気商売の儚(はかな)さを自覚していたからこそ、ひとときの栄光を謳歌したのかもしれない。

主演男優賞

 74年1月、映画雑誌「キネマ旬報」は、73年度の日本映画ベストテンを発表した。各賞の選考結果を知って驚いたのは東映上層部である。

「あんなこ難しい雑誌に選ばれるような映画に客は入らない」というのが会社の考えだったが、ベストテンのうち、2位に「仁義なき戦い」、8位に「仁義なき戦い 代理戦争」が選ばれていたのだ。読者選出のベストテンでは、「仁義なき戦い」が1位である。さらに、脚本賞を笠原和夫が、読者選出の監督賞を深作欣二が受賞したという。

 だが、一番の話題は、主演男優賞を獲得した菅原文太だった。東映の俳優で「キネマ旬報」の主演男優賞に選ばれたのは、文太が初めてだったからである。しかも、これまで対象にもならなかったヤクザ映画での演技が認められたのだ。

 ちなみに、主演女優賞は奇しくも文太と「木枯し紋次郎」で共演した江波杏子。江波は作品賞の1位に選ばれた「津軽じょんがら節」(監督・斎藤耕一)での演技が受賞理由となった。

 表彰式で文太は、いかにも照れ臭そうに挨拶をした。

〈思えば映画界に入って十五年、演じた役の中で、暴力と関係なかった役はほとんどありません。それもあまりカッコいい役ではなく、デカい声を出したり、女をムシったり、それで賞をいただくというのは何とも妙な気持ですが、まアこれも、十五年間ひたすら同じような役を演じて来たことへの努力賞のようなものかと〉(田山力哉・責任編集『野良犬の怨念 菅原文太』)

 脚本賞の笠原和夫も受賞に恐縮し、おもはゆそうに語っている。

〈ヤクザ映画というものはかつてジャーナリズムから抹殺されていた時期がありました。映画コンクールなどもいわば銀座の表通りで行われていることで、新宿の裏通りあたりをウロついている我々ヤクザ映画の作り手には縁のない世界だと思っていました(中略)。明日からは賞のことは忘れて、また新宿の裏通りに戻って行くつもりで〉(同)

 監督の深作もまた、映画が興行的成功や受賞というかたちで報われたことは喜んだが、それよりも大事なことがある、と強調した。

〈恐らく我々よりも鬱屈して生きている連中と、ある共感をわかち合うことの方に、我々のより大きな喜びがあった筈だ。我々も早いところ、あの馴染み深い裏通りへとって返さねばなるまい(中略)。我々の映画を支持してくれる人たちが住んでいる街へ〉(同)

 これまで賞から縁遠かった3人は、晴れがましい席に臨んで、当惑していた。文太も、雑誌の取材を受け、自戒気味に語っている。

〈こんなことでいい気になっていると、ポイとやられますからね。あぶないあぶない〉(同)

 深作や笠原の「裏通りに戻る」という言葉は「初心を忘れない」という覚悟の表明である。

 実際、文太は、新宿ゴールデン街に凱旋しているが、店の反応は意外なものだった。

 プロデューサーの吉田達は、文太に連れられてなじみの店に入ったときのことを覚えている。

「女の人が5、6人でやっている小さな店があってね、文ちゃんが椅子に座るなり、『仁義なき戦い、見てくれた?』と聞いたら、『文ちゃん、悪いけど、もっと小さな映画の方がいいわね』と口を揃えたの。『人斬り与太 狂犬三兄弟』とか『現代やくざ 新宿の与太者』の文ちゃんの芝居の方がよかったって」

 吉田は自分がプロデュースした映画のタイトルが出て喜んだが、文太は機嫌が悪くなった。ゴールデン街には映画や演劇の関係者が通う店がいくつもあり、店の従業員たちには映画通が多い。そんな街では、文太が特別扱いされることはなかったという。

「文ちゃんが祇園でモテたという話はよく聞いたな。だから、京都の方が居心地がよかったと思うよ。東京では持ち上げる人が少なかったもの」

 古巣のゴールデン街では今ひとつの扱いだったが、東映はもろ手を挙げて受賞を喜んだ。74年1月15日に公開されたばかりの4作目「頂上作戦」にハクが付き、文太が度々マスコミに露出することによる宣伝効果もあったからである。

 吉田はこの頃、渡瀬恒彦が酔って文太に絡む姿を、なんどか目撃している。

「渡瀬はけんかが強くてね。酒を食らって、菅原文太を投げ飛ばしちゃうわけだ。東映の俳優の中では一番の暴れん坊だった。たいして名前が売れてるわけでもないのに、誰を相手にしても怖がらないんだよ。俊藤(浩滋)さんが『おい、達、よく見ていろよ。渡瀬は上に行くぞ。主役にごますって役をもらうような奴は絶対に主役を超えられないけど、あいつなんか、ちょい役で主役の文太を投げ飛ばすんだからな』と言って褒めていた」

 渡瀬に絡まれた文太は、相手の酒癖が分かっているので、適当に流すというか、本気のけんかをするようなことはなかったという。

「文ちゃんと特に仲のいい俳優は思いつかないけど、渡瀬のことは、わりと気に入っていたんじゃないかな。あとは、共演が多かった川地民夫とか」

 さらに同年、文太は「仁義なき戦い」の挿入歌として「吹き溜りの詩」というレコードを発売する。作詞は深作欣二と池田充男。低音で文太が歌い出す挿入歌は、映画の人気が相乗効果となり、40万枚を売り上げた。成功が成功を呼ぶという、輝かしい時間の一ページである。

「キネマ旬報」に続いて、文太は京都市民(現・国際)映画祭の主演男優賞を獲得した。ファンは男性だけでなく、女性にも広がった。ベテランアナウンサーの下重暁子は、文太との対談で「今日はいつになく緊張している」と語り、演技派と呼ばれる吉行和子は「映画とテレビで共演できて、とても嬉しかった」と振り返る。太地喜和子は「いつか必ず文太さんと共演したい」などと熱いエールを送った。深夜興行には仕事を終えた水商売の女性も押しかけ、映像に見入った。

 一方、文太が最もライバル視していた高倉健は、72年に、抱えていたシリーズ作のすべてが終了したため、73年の東映出演作品は「山口組三代目」、「現代任侠史」(監督・石井輝男)、「ゴルゴ13」(監督・佐藤純彌)の3作だけだった。74年には、ついに「三代目襲名」(監督・小沢茂弘)の1作だけの出演になる。

 この頃、社長の岡田茂はビジネスを重視し、もはや客が呼べなくなった高倉を切り捨てようとしていた。金を稼げてこそのスターだ。

 吉田は、「岡田さんは、俳優が商品でなくなったら、即、切る人」と評する。

「それまでどんなに可愛がっていてもね、鶴田さんであろうと、健さんであろうと、売れなくなったら(岡田は)冷たいんだよ。会社が儲けるために仕事してるんだから。『俺は勲章をもらうために働いてるんじゃない』とか言ってたな」

 出演作が激減した高倉は、75年、「神戸国際ギャング」(監督・田中登)の出演を最後にして東映を去る。会社への大いなる貢献者である自分への冷たい処遇に、高倉が強い怒りを覚えても不思議ではない。東映との確執は、高倉の晩年まで続いた。

 文太の出演作は、73年は8本、74年は12本と本数こそ横ばいだったが、脇役ではなく主演作品が増えていた。これ以降は、年に数本の出演になるが、その代わりに出演料が跳ね上がった。最終的には1本あたり千万単位のギャラをもらっている。

 高倉の衰退とほぼ同時に、文太の時代が始まっていたのである。

名ラストシーン

 73年に始まった「仁義なき戦い」シリーズは、もはや社会現象と言っていいほどの人気を博し、4作目の「頂上作戦」は3億7100万円の配給収入をあげた。

 この作品で一番の名台詞は、広能昌三(文太)と、武田明(小林旭)が裁判所の廊下で交わす会話だろう。広能と武田はかつては敵対する仲だったが、警察が威信をかけて、組のトップを検挙する「頂上作戦」に出たため、今は互いに服役を待つ身である。

 裁判所の外は雪が降り続いており、広能の手首には手錠、二人は素足に雪駄を突っかけている。ときおり、寒さに二人の体が震える。

「昌三、何年打たれたんない」

「7年と4カ月じゃ、そっちは?」

 武田は、長い懲役刑になるだろうと予想し、広能に山守組長の刑が1年半だったことを告げる。血で血を洗う抗争の原因を作った男が、誰より軽い罪だったという。

「1年半と7年か……間尺に合わん仕事したのう……」

 このあと、広能はつくづくと語る。

「もう、わしらの時代は終(しま)いで……。18年も経って、口が肥えてきたけんのう」

 武田は深く頷き、広能に別れの言葉を掛ける。

「昌三、辛抱せいや……」

「おう、そっちもの……」

 淡々としているが、戦い抜いて日が暮れたヤクザの悲哀が滲み出ている台詞である。このシーンで、文太と旭は、同じ末路を迎えたヤクザとして、息を合わせた芝居を見せる。どこか突き抜けた小林の佇まいもいいが、文太の朴訥な語り口が、リアリティを感じさせた。

 故郷の宮城県から上京してきたとき、文太が話す言葉は東北の訛が強かったという。水戸弁の深作欣二もそうだが、人に訛を笑われると、話すことが苦手になる。無口になるのだが、その無口さが活きるのが、耐えに耐えた人間が放つ一言である。

「間尺に合わん仕事したのう……」

 言葉の重さ、深みが短い台詞に凝縮されていた。

 このラストシーンを書き終えたとき、脚本の笠原和夫は、「仁義なき戦い」シリーズは完結したと思った。長い抗争の末、広能と武田は「自分たちの時代は終わった」ことを悟り、表舞台から去って行く。これ以上はない結末である。

 だが、岡田茂はさらなる続編を書いてほしい、と依頼してきた。社長直々の頼みだが、笠原は首を横に振った。抗争の中心にいた人間たちが服役したあと、どうストーリーを展開させよ、というのか。残っているのは親分の留守を預かる子分だけなのだ。無理難題というものである。

 別な作品を書きたいという思いもあり、笠原は続編を断った。リリーフとして、後輩の高田宏治が執筆することが決まる。

週刊誌への抗議

「仁義なき戦い」シリーズの5作目は「完結篇」というタイトルで74年6月29日の公開が決定したが、この間、文太を激怒させる事件が起きた。

〈子ぼんのうな父――菅原文太の素顔〉

 女性週刊誌がスクープとして、文太と家族が自宅近くを散歩する姿を盗撮したのである。

〈広い木造の2階建て 芝生の庭に2匹の犬が遊んでいる 緑の多い静かな住宅地 ここが あの男・菅原文太のやすらぎの場所(中略)映画で見せるあの非情な姿はとおい やさしい父の顔だけが……〉(「女性セブン」74年6月19日号)

 写真は、文太と長男の薫が歩き、その後ろを、次女を乗せたベビーカーを押しながら文子(夫人)が追いかける姿が撮影されている。

 記事が掲載された直後、文太は東映の宣伝部長を通して、週刊誌に抗議を申し入れ、マスコミ各社に怒りをぶちまけた。

〈これはオレへの“仁義なき戦い”だ。盗み撮ったカメラマンを含めて編集責任者を何が何でも、鉄拳で制裁しなければオレの気持ちはおさまらない。アバラ骨の二、三本は折ってやる(中略)。なまはんかなお詫び広告なんかでは引きさがらない〉(「週刊朝日」74年6月21日号)

 怒り心頭に発していたのだろう。後日、下重暁子のインタビューを受けたときも、週刊誌への報復をまくし立てている。

〈たとえばメシ食っているところへズカズカ土足であがられたようなものです。無断で隠し撮りをするのは絶対に許せない。向こうがそうくるのは対抗するのにいくら考えても一つしかない(中略)。無断で侵入した人間は殺しても罪にならないという法律がある以上、あとは目には目を、歯には歯で、暴力でいくしかないわけです〉(「ヤングレディ」74年7月1日号)

 かなり荒っぽい発言だが、家族を表に出さないという建前は、自分の職業に関わっているからだと、付け加える。

〈ヤクザ映画をやっている俳優を支持してくれる人たちは、家族ももてない、家ももてない、あらゆる怨念をもった人たちです。それだからこそ、カッコよくやってのければのけるほど、喝采を送ってくれるんですね。それなのに、俳優の周辺に甘美な甘い家庭生活なんてものがチラつけば、イメージとしてはまずいですよ。ファンにとってはあまり見たくない部分です〉(同)

 私生活は一切見せず、映画の主人公のスカッとしたイメージだけを残すのがファンに対する俳優の誠意ではないか、というのが文太の主張だった。

 確かに、抗争に明け暮れるヤクザを演じている俳優が、実はマイホームパパだったと報道されれば、映画のイメージは崩れるだろう。しかし、文太は自分が子供に甘い父親であることを、積極的に語ってもいるのである。

〈一人息子がいるんだけど、その息子は、萩原朔太郎じゃないけれども、一生居候してくれてもいい。そのくらいの銭は、オレが使わないで残してやると思っているわけです。何でもいいから好きな生きかたをしてくれ。ヤクザになるならなってもいい、ジゴロになるならなってもよい(中略)。何がしら親父の遺産を一生食いつぶすことでもよし〉(同)

 広能昌三が聞いたら、「こん、馬鹿たれが!」と怒鳴りつけそうな言葉である。

デイリー新潮編集部

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