「過去にどんな栄光を背負った役者でも、永遠にそれを持ち続けることはできない」スター街道を驀進する菅原文太が吐露した自信と自戒 「仁義なき戦い」外伝〈5〉

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 シリーズ第3作目となる「仁義なき戦い 代理戦争」がクランクインしたのは1973年7月下旬、封切は9月25日だった。1作目の配給収入は5億3千万円、2作目が4億5千万円、3作目が5億8千万円を記録し、文太は東映のトップ俳優に躍り出る。出演料は1作目の倍近くなり、付き人も数人抱えることに。殺到する取材に文太は答えた。「ヒットも人気も、もちろん、うれしいです。でもね、映画俳優なんて、いつもあやふやな所に立っていて、誰も守ってくれない」。貴重な証言と膨大な資料を重ね合わせて綴られた傑作評伝『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子著)から、揺れるスターの胸の内を紹介する。

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トップ俳優へ

 シリーズ3作目の「仁義なき戦い 代理戦争」がクランクインしたのは1973年7月下旬。この作品あたりから、菅原文太の言動に自信がみなぎってくるようになった。

〈もうオレの顔なんか映ってなくたっていいんだ。とにかく作品のムードが出てるものならそれでいいから、オレの顔の大きさなんかにはこだわる必要はないよ〉(「アサヒ芸能」2015年1月1・8日号)

 これは映画の宣伝ポスターを製作するとき、文太が宣伝部次長の小野田啓に話した言葉である。スター中心主義の東映において、ポスターには主演俳優の顔や全身写真が一番大きく配置されるのが通常で、あとは準主役が周りを取り囲むような形で配置される。だが、文太は「そんなことはどうでもいい」という。

 文太の意思を反映して出来上がったポスターやパンフレット、チラシは、これまでの東映では考えられないほど斬新だった。拳銃がポスターの中心にあり、その周りに文太と準主役、脇役の顔が散らばっている。また、俳優たちの顔をずらりと並べ、殺された役の俳優に×印を付けたものもあった。文太にだけは×印がなく、「こいつだけがなぜ生き残った!?」という惹句がついた。

 東映に移籍した直後から、文太は高倉健を強く意識してきた。高倉は文字通り、東映の顔である。だが、文太は「自分の顔より、映画のイメージの方が大事」と話すようになった。余裕を感じさせる発言の背景には、文太の立ち位置の変化があった。

 73年9月、文太は高倉健、鶴田浩二を抜いて、東映ナンバーワンの俳優に選ばれていた。

「代理戦争」の公開に合わせ、東映が9月19日と25日に東京と大阪の劇場で行ったアンケート調査で、ファンの支持は高い順に、菅原文太が41.8%、高倉健が30.3%、鶴田浩二が20.5%、安藤昇が7%、渡瀬恒彦が5%という結果が出たのだ。「仁義なき戦い」シリーズで得た人気が、はっきり数字となって表れたのである。

 配給収入は、1作目が5億3千万円、2作目が4億5千万円、3作目は5億8千万円を記録するのだが、文太は、シリーズ2作目にして東映のトップ俳優に躍り出た。

〈ヒットも人気も、もちろん、うれしいです。でもね、映画俳優なんて、いつもあやふやな所に立っていて、だれも守ってくれない(中略)。だいたい、過去にどんな栄光を背負った役者でも、永遠にそれを持ちつづけることはできない〉(「平凡パンチ」73年12月17日号)

 だからこそ、その時代とともに生きるしかないし、それが面白さだと話すが、一方で、自信も覗かせる。俊藤浩滋プロデューサーの任侠路線に乗れなかったことが、逆に幸いしたという。

〈俊藤さんに『二年遅かった』といわれましたね。でも、それが結果的にはよかったんでしょう。任侠もののワクに組み込まれていたら、健さん鶴さんを越えることは全くできなかったでしょうからね〉(「週刊朝日」73年9月7日号)

 この発言は、〈過去にどんな栄光を背負った役者でも、永遠にそれを持ちつづけることはできない〉につながる。自分のことを話しているようで、高倉健、鶴田浩二を過去の栄光扱いしているようにも聞こえる。8月16日生まれの文太は、アンケート結果が出たときは40歳。まさに遅咲きのドル箱スターの誕生である。

貧乏ゆすりが共通点

 深作欣二はこの頃の文太を、しきりに「同志」と呼び、「野良犬文太」と親しみを込めて話す。

〈彼の顔は、ノッペリした、いわゆる役者顔ではなく、苦労した人間の顔です。戦後の混乱期の体験を、どこかに引きずっている苦さ、彫りの深さがある。それが、スターといわれるとき、彼が示す気恥ずかしさに、よく出ている〉(前出「平凡パンチ」)

 任侠美学へのアンチテーゼ作品である「仁義なき戦い」は、東映の伝統であるスターシステムを揺るがせた。東映移籍当初は仰ぎ見る存在だった高倉健を人気の上で追い抜いたという事実が、文太に大きな自信を与えたことは間違いないだろう。

 3作目の「代理戦争」からチーフ助監督についた土橋亨は、撮影の合間、深作に菅原文太のどんなところが良いのか、尋ねたことがある。

「貧乏ゆすり、と深作さんは言ったの。文ちゃんは現場で何もしていないとき、貧乏ゆすりをするんですけど、それが役にピッタリだと」

 その言葉の意味は、じきに分かった。土橋は3作目の「代理戦争」と4作目の「頂上作戦」の製作のとき、美能幸三に会って聞き書きをしていた。

「ホテルに酒を持って行って、美能さんの支離滅裂な話や、東映の悪口ばかり言っているのを、テープレコーダーに収めて、肝心なところを起こすわけです。それをまとめて脚本の笠原(和夫)さんに渡すことを繰り返しました」

 美能に会って、土橋は深作の言葉を思い出した。

「似てるんですよ、文ちゃんに。美能さんも、貧乏ゆすりをするんです」

 広能昌三のモデルである美能は、用心深くて、話をしている間も貧乏ゆすりをするほど落ち着きがない。これまでの凄まじい経験のせいか、常に緊迫感があったという。映画の広能も、周囲に注意を払いながら、次に起こる事態に備える役柄だ。

「深作さんは『鶴さんや健さん、富さんたちは、どうしても静的(スタティック)な芝居になってしまう』と話してましたね。文ちゃんは、そうはならない。例えば、健さんだったら、何も言わずにぐっと三白眼で睨む、いわゆる決まりの芝居。マキノ雅弘監督は、健さんのことを『あれは喋らん方がいい。なるべく台詞を省けよ』とおっしゃっていたけど、『仁義なき戦い』のような映画では、そういう芝居は合わないでしょう」

 土橋は、深作は文太にほとんどダメ出しをしなかったと話す。

「『微妙なんだよな』とか言って、何度もテストを繰り返すことはありましたが、本番で文ちゃんのNGは、数えるくらい。それだけ、広能役がピタッとはまっていた」

 美能の場合は、なんども周囲の裏切りに遭って用心深さが身に付いたのだが、文太にも、苦労を重ねてきた人間の慎重さを感じたという。

実録映画とモダンジャズ

 土橋はチーフ助監督として、撮影の全体的な流れを把握し、さまざまな調整を行った。監督や俳優、スタッフたちの動静に気を配っていると、さまざまな情報が耳に入ってくる。

「これは同期の助監督から聞いた話ですが、なんの作品だったかな、文ちゃんが主役で、地方の宿泊ロケに行ったときのことです」

 撮影隊はロケ地の宿に泊まり、撮影が終わると、街に繰り出して飲むのが慣例だった。だが、助監督だけは翌日の準備があるので、飲みに行くことはできない。

「そのかわり、宿の部屋には食べ物から飲み物から全部揃っていて、飲食自由です。そうしたら、文ちゃんがやって来て『ここはいいんだよな。飲むもの食べるもの、何でもあるし。楽しいよな』と言って、部屋に居座ったそうです」

 文太は街に繰り出すことはせず、いつも助監督たちと話をしていたという。

「議論好きだったのかな。主演俳優が助監督の部屋に入り浸るなんて、まず、聞いたことがありませんね」

 また、高倉健や鶴田浩二、若山富三郎には、それぞれ取り巻きのスタッフがいたが、文太はそういう人間は作らなかった。俳優との付き合いも同じである。

「あれだけいろいろな人たちと共演しているけど、親しい付き合いはなさそうでしたね。東映の俳優というより、むしろ加藤武さんとか、田中邦衛さんとか、新劇系の人とは合うのかな、楽しそうに話をしていたから」

 土橋はあるとき、文太とモダンジャズの話で盛り上がった。

「僕が大学生のとき、ジャズ・メッセンジャーズが来日したんですが、アルバイトした金で日比谷公会堂へ行った話をしたら、『おお、あのとき行ったのか』と。『好きなんですか』と尋ねたら『もう大好きだ』と答えて。それで、文ちゃんは物凄くモダンジャズに詳しいんですよ。マイルス・デービスが特に好きでした」

 任侠映画が正調演歌の世界なら、実録映画で展開されたのは即興のモダンジャズの世界だろう。のちに文太は「仁義なき戦い」を振り返り、こう記している。

〈……混沌、喧噪、生々しさ、レジスタンス、荒々しさ、センチメント、アドリブ、それらがあの時大きなボイラーの中で悲鳴をあげていた。俺だけでなく、旭が、欣也が、梅宮が、渡瀬、室田、拓三、志賀勝が、金子さん、加藤武さん、三樹夫さん、方正さんが、思えばマイルス・デービスであり、キャノンボールであり、サム・ジョーンズ、ハンク・ジョーンズであり、アート・ブレーキィ、ボビィ・ティモンズ、リー・モーガンであったと思う〉(『東映映画三十年』東映)

 ジャズ好きの文太ならではの文章である。

小林旭の存在感

 3作目となる「代理戦争」では、広島を支配していた村岡組が跡目を山守義雄に譲ったことから、跡目確実と目されていた打本組の打本昇と対立が起きる。打本は勢力を保持するために、神戸の明石組と舎弟盃を交わし、一方の山守も、明石組と勢力を二分する神和会と兄弟盃を交わす。この時点で広島抗争は「明石組と神和会の広島代理戦争」と呼ばれるようになる。

 文太が演じる広能は、山守と打本の間で揺れ動く。山守に翻弄され、優柔不断な打本に振り回され、ついには破門されてしまう。

 さまざまな人間が交錯する「代理戦争」の中で出色なのは、初登場の小林旭である。小林は村岡組の幹部・武田明を演じており、武田の登場で、ドラマの流れが政治的な要素を帯びてくる。

 深作は、武田の役には小林旭のような重さが必要だった、と語っている。

〈ただやはりね、あの『渡り鳥』の大スターが本当にみっともないヤクザになれるのかどうか心配ではあったけど(笑)〉(杉作J太郎・植地毅編著『仁義なき戦い 浪漫アルバム』)

 日活でマイトガイと呼ばれ絶大な人気を誇った小林は、斜陽の日活を去り、72年に東映に移籍。「仁義なき戦い」のスクリーンに登場したときには、大喜びしたファンも多かった。小林は、出演当時の心境を著作でこう振り返っている。

〈俺は役者馬鹿なんだよ。役者として、あくまで役作りのためにそういう組関係者の人たちと接したり飲んだりしたことはあった(中略)。俺がやった役のご本人と、銀座で月に三回くらいは飲んで話していたよ。なるほどこういう性格の人か。こういう話し方をするんだな、っていうのが分かるじゃない(中略)。「代理戦争」からの参加だったけれど、この時は、深作欣二監督の作品をそれなりに仕上げてあげたい、そんな気持ちだった〉(小林旭『熱き心に』)

「代理戦争」で大振りなサングラスをかけて現れた小林は、明らかに東映のスターとは毛色が違っていた。ある種の華やかさを漂わせていて、ヤクザ御用達の野暮なスーツを着ていても、どこかスタイリッシュだった。

 もっとも、小林がその魅力をいかんなく発揮するのは、4作目になる「頂上作戦」である。

マイペースの頑固者

「仁義なき戦い 代理戦争」の公開を終えたあたりから、文太の身辺が慌ただしくなってきた。

 まず、シリーズの成功を受けて、取材の申し込みが殺到し、マスコミへの露出がかつてないほど増えた。著名人との対談も、短期間に数多くこなしている。付き人も、最初は1人だけだったが、数人抱えるようになった。

 また、1作目は200万円だった出演料が倍近くになり、100万円の大入り袋もなんどか受け取っている。公務員の初任給が8万6千円、山手線の初乗り運賃が60円(76年統計)の時代である。出演料の200万円は現在の600万円くらいの価値があっただろう。

「自分はこれまで根無し草のように住居を転々としてきた」と語っていた文太は、この頃、杉並区南荻窪に自宅を購入した。次女が生まれ、3人の子供の父親にもなっていた。

 本人は多忙を極め、東京と京都の撮影所をひたすら往復する日々だったが、麻雀好きなので、その時々のメンバーと卓を囲んだ。

 文太の最初の付き人だった司裕介は、「オヤジは、手のかからない人だった」と振り返る。

「オヤジが麻雀しているときに、僕が『帰ります』というと『おおそうか、ご苦労さん』という感じでね。自分の身の回りのことは自分でやるし、必要な物は本人が買ってきた」

 麻雀には、性格が出た。山城新伍が文太と卓を囲んだときのことを回想している。

〈彼の人生がたぶんそうであったように、パイの一枚一枚を、あまりにゆっくり慎重に切るものだから、いちじるしくリズムが乱れ、気の短い渡瀬恒彦などはいらいらのしっぱなしで、結果は文ちゃんのペースに乗せられて負けてしまうという、なんといわれても自分のペースをくずさない頑固者の一面を見せる〉(「週刊女性」76年1月1日号)

 山城は、そんな文太に、東北人独特のバイタリティーを感じたという。「文太は頑固者」という点では梅宮辰夫の意見も一致している。

「『仁義なき戦い』の撮影で、広島ロケに行ったんです。俳優たちがまとまって、京都から山陽新幹線に乗り、広島へ行くんですけど、途中、岡山のあたりで、付き人の司裕介が『辰兄、ちょっと困っています。助けてください』と言ってきた」

 梅宮が「どうしたんだ」と尋ねると、司は「また、オヤジが始めたんです」と答えた。文太が「車掌と揉めている」という。

「僕が『無賃乗車でも疑われたのか』と聞くと、『持ち込みです』と。よく司の話を聞いてみたら、文ちゃんが岡山駅のホームで立ち食いうどんを買って、そのうどんを食堂車に行って食べようとしたら、車掌に注意されたんだと」

 梅宮はすぐ司とともに、食堂車へ向かった。そこで文太は車掌に向かって「誰が決めたんじゃあ!」と怒鳴り散らしていた。

「文ちゃんは、外から持ち込んだものを食堂車で食べてはいけない、というルールを誰が決めたのか、と怒っていたんです。立ち食いのうどんなんだから、店で食えばいいのにね。言い出したらきかない。頑固でねえ。あの人らしかったな」

 梅宮は、文太は融通がきかない性格だった、と言う。司は私の取材を受けたときに「オヤジは手のかからない人だった」と話したが、実際は手を焼くことが度々あったのだ。

付き人のバイク事故に

 司裕介は京都撮影所の大部屋俳優で、殺陣の技術集団「剣会」のメンバーである。文太に付いたのは、72年の「木枯し紋次郎」からだった。

「会社から『文太さんの面倒を見てやってくれ』と頼まれたんです」

 文太に挨拶をして3日後、まだお互いに気心も知れていなかったが、司は三宅島の宿泊ロケに同行することになった。付き人としての初仕事である。

「監督も含めて、スタッフは皆さんペンションに泊まっていたんですが、主役のオヤジと共演の江波杏子さんは旅館です。あれは嫌でしたねぇ。本当に」

 何が嫌だったのか尋ねると、「食事のとき」だと言う。

「身の回りの世話が必要なので、僕も旅館に泊まっていたんですが、朝と夕、オヤジと江波さんと僕の3人でご飯を食べるでしょ。会話がないんですよ。シーンとして」

 文太は喋らない、江波も全然喋らない、司は何を話していいか分からない。聞こえるのは漬け物を噛む音ばかり。そんな状態が10日間も続いた。

「もの凄く長く感じましたね。スタッフのペンションは撮影が終わると、楽しそうにどんちゃん騒ぎをしているのに、こちらは、宿の女将さんまで気を遣って、ヒソヒソと声をひそめて話すような状態で。1日でもいいから、あっちに移りたかった」

 三宅島では魚料理がよく出たが、文太は刺身が苦手だった。特に青魚が駄目だったという。

「マグロはまず食べなかった。寿司もあまり食べないし、ただ、焼いたサンマは好きでした。小さいときに、何かあったんでしょうかね。息子の加織も同じで、刺身が苦手でした」

 付き人になってから、司は文太が主演する映画のほとんどに出演している。「仁義なき戦い」のときは、文太が頻繁に自宅に電話しているのを覚えていた。

「京撮の部屋に電話があったので、内線から東京につないでいましたね。携帯電話がない頃ですから。奥さんと長い時間、話していた」

 幼い子供たちの様子も気になっていたのだろう。家族思いの一面を見せている。

 司が覚えている限り、文太は監督や俳優の悪口を言ったりはしなかった。共演した女優についても、ほとんど語らない。

「ただ、渚まゆみさんのことは褒めてましたね」

 渚とは「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」で共演し、一部のマスコミで二人の関係が話題になったこともある。京都ではプロデューサーに連れられて芸者遊びもしたというが、遊びについては、特に口が堅かったという。

 付き人になって数年後、司はバイクの飲酒運転で事故を起こした。新聞にも載るほどの大きな事故で、全治1カ月だった。退院して間もなく、文太から東京の自宅に来るよう言われた。叱られるのかと覚悟していたのだが、違った。

「『今日は司の全快祝いをやろう』と言われてね、僕はもう大泣きです。嬉しかったなぁ。奥さんもいらして『お酒を飲んで運転してはダメよ』と注意されたけど、優しかった。だけど何日かあとで、梅宮辰夫さんに会ったときは怖かったです。『おい司、東映の俳優で酒をくらって事故を起こしたのは誰だ』と聞かれて。僕なんですけどね。梅宮さんは、かなり怒っていた」

 文太の付き人としては一番古く年長で、兄貴分の存在だったのが司である。司の記憶では、入れ替わり立ち替わりで、20人以上の付き人がいたという。

 付き人ではないが、司と同じく「ピラニア軍団」の団員になった志賀勝は、任侠映画の時代からなんども文太に斬られたり、殴られたりした。大部屋俳優なので固定給と日給だけでは生活が苦しく、文太を相手に「当たり屋」になったことを語っている。

〈チャンバラの刀とか、ケンカのパンチが当たってしまったら、当てた主役が手当てとして5000円くれんねん。それで、わざと当たりにいく〉(「サイゾー」2013年11月号)

 5千円は、臨時収入としては大きく、少々の怪我をしてでも欲しい金だった。

〈中村錦之助さんや、大友柳太朗さんは上手だから絶対に当てへんけど、菅原文太さんなんかは、頭が悪いから、よう当ててきよったわ(中略)。ほんまに当ててるんやから、そらうまく映るわな(笑)〉(同)

 志賀が文太を「頭が悪い」と言ったのは、5千円の手当てを払うことになるのが分かっていても、避けようとしなかったからである。現場の迫力を優先したためだったのか。

「仁義なき戦い 頂上作戦」でも、文太は志賀を含めた「当たり屋」たちになんどか金を支払った。ただし、付き人が「今のはわざと当たりに行っただろ」などとチェックを入れるので、2千円にダンピングしたこともあったという。

 もっとも、この頃の文太に少々の出費は痛くも痒くもなかった。会社の待遇が大物扱いになり、出演料も交渉次第ではさらなるアップが見込めたからである。

デイリー新潮編集部

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