「文太が急に映画を降りたいと言ってきた」メンツとしがらみが錯綜した第2作「広島死闘篇」のお家事情 「仁義なき戦い」外伝〈4〉
「仁義なき戦い」が封切られた1973年1月13日の深夜、脚本を手掛けた笠原和夫は京都の映画館に出かけて度肝を抜かれた。その前日、東映社内の試写会で観て演出に激しい怒りを覚えた作品が、世の中で熱狂的に迎え入れられていたからだ。その3カ月後、シリーズ2作目となる「仁義なき戦い 広島死闘篇」も封切られ、やはり大ヒットを記録する。ところが、「広島死闘篇」もさまざまな問題を孕んでいた。貴重な証言と膨大な資料を重ね合わせて綴られた傑作評伝『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子著)から、伝説の映画の舞台裏を紹介したい。
***
速報羽生結弦との「105日離婚」から1年 元妻・末延麻裕子さんが胸中を告白 「大きな心を持って進んでいきたい」
厳寒の写真撮影
72年の暮れ、1作目の撮影中、東映宣伝部は写真家の富山治夫に「ポスター用の写真を撮ってほしい」と依頼していた。アート系の写真を撮る富山に、新しいイメージのポスターを期待したのである。文太が富山を指名したという説もある。
当時の富山は芸能関係に関心が薄く、菅原文太の名前も知らなかった。
〈でも、仕事の依頼があったので、取り敢えず京都へ行こうというわけで、そこで文太さんと初めて顔を合わせたのだが、なんとなくギコチなかったのを覚えている〉(田山力哉・責任編集『野良犬の怨念 菅原文太』)
富山と親しくなるためか、文太は宿泊先の旅館から、富山が泊まっていた京都ロイヤルホテルに移る。1週間ほど二人で食事をしたり、酒を酌み交わすうちに、気持ちが通うようになった。それでも富山はブラブラしているだけで、一向に写真を撮る気配はなかった。
〈私には従来のスチル写真を撮る気はなかった。むしろ、スチルとか映画にないような、私自身のイメージづくりをしようという気持ちが強かった〉(同)
文太も富山に共感し、イメージが決まったところで、二人は極寒の若狭(わかさ)湾へロケ地探しに出かける。ここからは真剣勝負で、お互いに妥協はしなかった。
〈私の細やかなイメージを(文太は)身体をはってふくらませてくれた〉(同)
文太は、凍えるような夜明けの海に、褌に晒(さら)しを巻いただけの姿で飛び込んだ。身体には、美能幸三と同じく背中から臀部にかけて鯉、右肩に唐獅子、左肩に般若の刺青が描かれている。手に持っているのは本物の日本刀で、海水を浴びて錆びるというアクシデントもあった。
若狭の海に寒風が吹き荒ぶ。富山は、このままでは文太が風邪をひくのではないかと心配し、撮影中止を申し入れたが、文太はきっぱりと断った。
〈そこが役者根性、目的のためには何もいとわぬと、凄い迫力と鋭い役者感覚にジリジリと押しまくられて、撮影終了〉(同)
「仁義なき戦い」シリーズのポスターや、文太のプライベートを切り取ったモノクロ写真の多くは、富山が撮影したものである。
笠原和夫の困惑
菅原文太は「仁義なき戦い」が何十年経っても根強い人気を誇っている理由を尋ねられたとき、こう答えている。
〈何なんでしょうかねえ…いろいろ意味づけをする人はいるけど、まあ、単純に作品がおもしろいからじゃないかな〉(「アサヒ芸能」2014年12月25日号)
文太は笠原和夫の脚本の凄さも認めていた。
〈監督もそうだし、俳優もそうだし、津島利章氏の音楽もそうだったけれど、やっぱりいい脚本に出会うと、何か触発されてくるもんがあるんだろうなあ(中略)。それでいうと笠原さんの「仁義なき戦い」は、一つ一つのセリフに至るまで、本当によく行き届いて書いてあったからね。非常に研ぎすまされていた〉(同)
その笠原は、「仁義なき戦い」の試写を見たあとで怒り狂ったという。
〈なんだ、あれは。話をちゃんと纏めてないじゃないか。キャメラはキャメラでカチャカチャ動き回り、人間の顔がフレームに収まらずに切れている〉(笠原和夫『映画はやくざなり』)
72年12月28日、午後4時、東映京都撮影所で、「仁義なき戦い」の試写会が開かれた。約1時間半後に映画のエンドマークが出た瞬間、笠原は堪えに堪えていた怒りを爆発させ、席を蹴るようにして外へ出た。
〈そりゃおれのホンも纏まりが悪いものだったが、監督がさらに引っかき回しやがって、どんな話か分かりゃしない。こっちが苦労した群像ドラマの厚みも焼跡の青春の哀愁もふっ飛んで、目が回るだけじゃないか。言わんこっちゃないぜ、だからおれは深作(欣二)の起用に反対したんだ! 今回は負け戦だけは避けたかったが、あの野郎のせいで、こりゃダメだ〉(同)
深作の顔を見たら何と言ってやろうか。2階の企画室で考えていると、スタッフが上がってきて口々に「素晴らしい」「興奮した」「傑作だ」「あんな映画見たことない」などと褒め称えた。「あれは当たるよ。絶対」と断言する者までいる。試写室は拍手喝采だったという。さらには深作を称える乾杯の用意までしていた。笠原は困惑した。
みんな頭がおかしいんじゃないか……。
この夜、笠原は関係者たちと祇園で飲み歩き、2次会あたりから荒れ始めて、深作にひどい言葉を投げつけたという。
だが、明けて73年1月13日、シリーズ1作目となる映画が封切られた日の深夜、笠原は京都の映画館へ出かけて、認識を一変させる。映画館はほぼ満杯の状態で、観客の熱狂が伝わってきた。笠原は大勢の観客に混じって映像を追ううちに、激しく動き回るキャメラをリズミカルだと感じ、試写室とは違う大画面の迫力に興奮した。画像が上下逆になれば、首を斜めに動かしてみたり、観客と同化していたのだ。文句なしに凄い、面白い。
〈わたしは深作欣二監督の得難き才能を見損なっていた訳で、映画館の暗闇で密かに脱帽し、おのれの不明を恥じた〉(同)
映画は、これまでヤクザ映画に見向きもしなかった朝日新聞の映画評でも絶賛された。おかげで各紙誌にも記事が載るようになり、会社の予想を上回る大ヒットとなっていく。
そんな中、深作は社長の岡田茂から一通の電報を受け取った。
「ダイヒットオメデトウ、キクンノゴフントウニココロカラカンシャシマス」
東映に入社して20年。会社の最高責任者に感謝されたのは、監督になって初めてのことであり、深作はわが目を疑った。
俊藤の企み
一方で笠原は、「仁義なき戦い」の第2作を依頼されており、題材選びに苦慮していた。社長の岡田は「広島事件」を書けと言うが、飯干晃一の連載はまだ続いており、完結するまでには時間がかかる。なにより問題だったのは、広島ではいまだに抗争が継続中だったことである。
そこで笠原が考えたのは、原作に短く登場する山上光治という若い殺し屋を主人公にしてはどうか、というものだった。山上は常にブローニング38口径オートマチック拳銃(映画では45口径)を持ち歩き、生涯に5人を殺害した。必ず一発で相手をしとめ、倒れた相手の死亡を確認してから現場を去ったという。広島極道の典型として伝説になっている男である。
今回は群像劇ではなく、24歳の若さで自殺した山上に焦点を絞って、情念の芝居を作ろう。
笠原は会社の上層部と企画部に脚本の趣旨を話して、了解を取ったものの、この作品「仁義なき戦い 広島死闘篇」は二つの問題を孕(はら)んでいた。
まず、東映のお家事情である。
任侠映画の父ともいえる俊藤浩滋プロデューサーは、「仁義なき戦い」の監督に深作を選んだとき、これからは任侠映画と実録映画の二つの路線で製作を進めようと考えていた。だが、岡田茂は初の実録映画の成功を受け「今後、任侠映画は製作しない」という方針を打ち出した。
鶴田浩二、高倉健、若山富三郎、菅原文太らのマネージメントをしていた俊藤にとっては「あまりの仕打ち」であり、到底承服できるものではない。任侠映画が東映を支えてきた歴史、その恩恵に後足で砂をかけるつもりか。
岡田が任侠映画を見放したのは、映画を上映する全国の館主たちの意見が大きく影響していた。もはや従来の任侠映画では客が集まらなくなっており、館主たちは「これまでと同じような映画なら、我々は小屋にかける必要を認めない」という。「『仁義なき戦い』ならよろしい」とも言われ、岡田は方針転換を決意したのである。
それから間もなく、笠原は企画部から思いがけない連絡を受ける。「文太が急に映画を降りたいと言ってきた」という。理由を聞いても抽象的なクレームで意味が分からない。
そこで、笠原、深作、文太が顔を合わせ、話し合いの場を持つことになった。
深作はまず、「仁義なき戦い」が文太主演のシリーズということは動かないが、2作目は番外編的に作るしかないと考えていることを、文太に伝えた。1作目とは設定が異なることを理解してほしい、とも話した。丁寧に説明したつもりである。深作は回想する。
〈そしたら文太が「じゃあ、俺は出ないほうがいいのかな」「馬鹿なこと言いなさんな。お前さんが出なくてどうするんだ」そのうちに笠原さんもカーッとなるし、文太と怒鳴り合いを始めた〉(深作欣二・山根貞男共著『映画監督 深作欣二』)
笠原もまた、文太に「第2部は出番が少ないよ」と前もって伝えてあったし、本人は承知していたはずである。それなのになぜなのだ。文太としばしの口論の末、笠原は言った。
〈「お前、表に出てやるか!? 何なんだ。前と言ってることが違うじゃないか!」とね。そうしたら、「そっちがやる気なら、やってもいいです」なんて言うから「ふざけるんじゃない。俺がガラス瓶、パンと割ってお前の顔を傷つけたら、もう役者としてやっていけないんだぞ。それでもやる気あるのか」と言ってやったら、間に深作が入って「まあまあ」と(笑)〉(笠原和夫・荒井晴彦・すが秀実『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』)
深作が仲裁に入り、文太は険悪な雰囲気のまま帰っていった。そのあとは、笠原、深作、プロデューサーの日下部五朗らが話し合い、「文太が出ないのなら、出なくてもいい。代わりの役者を使ってでも撮る」という結論に達した。
笠原は文太の態度が短期間のうちに変わったことについて、原因を考えた。文太の背後には俊藤がいる。俊藤は、任侠路線を切り捨てた岡田に対し、文太を出演させないことで意趣返しを企んだのではないか、というのが笠原の推測だった。
笠原は73年3月14日の日記にこう記している。
〈結局は、(降板理由は)役不足ということで、それに、俊藤氏が裏で強硬にこの作品を流すことを画策しているらしい。文太も、それらのことを率直に口に出して云わぬからこじれる〉(笠原和夫『「仁義なき戦い」調査・取材録集成』)
〈そうしたら今度は、また文太が再逆転して、「出させていただきたい」と〉(同)
「仁義なき戦い」は、封切館の上映が終わったあとも、二番館、三番館にかけられ、興行収入を増やしていた。各方面の評価も高い。そんな映画のシリーズ化が決まったとき、主役を降りる役者はまずいない。俊藤に言われて一度は出演を固辞したものの、文太の本音ではなかった。俊藤に逆らうことになっても、「自分は出演したい」という気持ちが勝ったのである。
このあと俊藤が文太の映画をプロデュースする機会は激減した。俊藤の東映における権限が、大幅に失われていったからだ。
岡田と俊藤の不仲はマスコミでも報じられ、一時は俊藤が鶴田浩二や高倉健など自分の息のかかった俳優たちを連れて独立しようと画策したが、今回も東急のトップ・五島昇が仲裁に入り、事は収まった。岡田と俊藤の手打ちとなった映画が、73年8月公開、高倉健主演の「山口組三代目」(監督・山下耕作)である。
役の入れ替え
こうした東映のお家事情のほかに、「仁義なき戦い 広島死闘篇」には、もうひとつ問題が発生していた。最初のキャスティングでは、山上光治がモデルの主人公の山中正治を千葉真一が、大友勝利を北大路欣也が演じることになっていたが、北大路が「暴れまくる大友役は自信がない」と言い出したのだ。「山中の役なら理解できる」とも訴えるので、二人の役を入れ替えねばならない事態になった。
深作はこれを聞いたとき、千葉はなまじなことでは承知しないだろう、と思った。なぜなら、千葉と北大路には、以前にも役の取り替え騒動があったからである。「海軍」(監督・村山新治/63年)という戦争映画で、千葉は真珠湾に突っ込んでいく将校の役、北大路は病気で戦場には行けない友人の役だったが、土壇場になって北大路が千葉の役をやりたい、と言い出した。会社は、御大・市川右太衛門の息子で、東映のプリンスと呼ばれる北大路の要望を無視するわけにはいかず、変更を認めたといういきさつがあった。
案の定、千葉は説得に来た日下部を「納得できない」と突っぱねた。すでに台詞も入っていて、役作りは出来上がっているという。そこで、深作が千葉に会い、諭すように説得した。
〈お前さんには山中ができるだろうけれど、逆に欣也には大友は逆立ちしてもできない。できないから彼は正直に言ってるんだ(中略)。事情がこういうふうになってくると、最初のままで欣也の大友だったら、今度は俺が監督を断るわな〉(前出『映画監督 深作欣二』)
結果的に、千葉は折れて、大友役を引き受けた。役作りは一からやり直しである。
だが、千葉はのちに「大友をやって本当に良かった」と回想している。
〈自分が広がったなって思う。あれから役者として役の見方も変わったし(中略)その後いろんな役に挑戦したくなってきた〉(鈴木義昭『仁義なき戦い 公開40周年 そのすべて』)
実際、この作品で主役を食うほど目立っていたのは、下品極まる台詞を吐き、暴力の限りを尽くす荒くれ者・大友勝利を演じた千葉だった。
千葉は、テキ屋の仁義を説く父親に向かって、「のう、おやじさん、神農じゃろうと博奕打ちじゃろうとよ、わし等うまいもん喰うてよ、マブいスケ抱く為に生まれてきとるんじゃないの。ほうじゃけん、銭に体張ろう言うんが、どこが悪いの」と話し、笑い飛ばす。
シリーズの登場人物の中で、広能昌三に続いて大友勝利に人気があるのは、千葉の吹っ切った演技が強い印象を残したからだろう。
「広島死闘篇」は73年4月28日に公開され、1作目に続くヒットとなった。続く「代理戦争」で、文太は東映のトップ俳優としての貫禄をみせるようになる。