「文太が急に映画を降りたいと言ってきた」メンツとしがらみが錯綜した第2作「広島死闘篇」のお家事情 「仁義なき戦い」外伝〈4〉
「仁義なき戦い」が封切られた1973年1月13日の深夜、脚本を手掛けた笠原和夫は京都の映画館に出かけて度肝を抜かれた。その前日、東映社内の試写会で観て演出に激しい怒りを覚えた作品が、世の中で熱狂的に迎え入れられていたからだ。その3カ月後、シリーズ2作目となる「仁義なき戦い 広島死闘篇」も封切られ、やはり大ヒットを記録する。ところが、「広島死闘篇」もさまざまな問題を孕んでいた。貴重な証言と膨大な資料を重ね合わせて綴られた傑作評伝『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子著)から、伝説の映画の舞台裏を紹介したい。...