「死んでもやるから、やらせてください」キャスティングも紆余曲折を経た「仁義なき戦い」舞台裏 「仁義なき戦い」外伝〈2〉
菅原文太がこの世を去ってから7年。彼を一躍スターの座に押し上げた「仁義なき戦い」シリーズの第1作が封切りとなったのは1973年1月のことだった。公開から半世紀を経てなお愛され続ける実録映画の金字塔が世に出るのはしかし、簡単なことではなかった。主人公、重要な脇役たち、監督、キャメラマンなど、ありとあらゆるキャスティングが難航を極めたのだ。それらが落着してなお、クランクインまでに解決しなければならない問題がいくつも残されていた。貴重な証言と膨大な資料を重ね合わせて綴られた傑作評伝『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子著)から、伝説の映画の舞台裏を紹介する。
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美能を探して
必然ではあったが、東映が「仁義なき戦い」を映像化するのは一筋縄ではいかなかった。
72年9月末、笠原和夫と日下部五朗は広島県呉市に降り立った。「仁義なき戦い」の原作となる手記を書いた美能幸三に会い、映画化の承諾を取るのが目的である。
笠原にシナリオの執筆を依頼したのは俊藤浩滋で、大げさな映画にすると広島のヤクザがうるさいから、当事者には一切取材をせず、パッと本(脚本)を纏めて、チャッと撮って、ノンスター、白黒映画でやりたい、という意向だった。いわば添え物映画の扱いである。
問題は、美能が刑期を終えてシャバに出て来たばかりで、所在不明だったことである。「週刊サンケイ」の連載が始まってから身の危険を感じ、隠れているのかもしれない。
二人して市内を探し回り、つてを辿ってなんとか美能に会うことができたのだが、笠原が映画化の話を切り出すと、美能は「だめだ。映画なんか信用できん」と言い放った。
だが、笠原が戦時中、大竹の海兵団にいたことを知ると、態度が軟化した。美能も同じ海兵団にいたからだ。
〈「絶対映画に使わないんなら、広島事件の本当の話をしてやる、わからないところは教えてやる」と言い出した。それでいろいろ詳しい話を聞いてみると無類に面白い(中略)。裏話を延々七時間くらいかけてしてくれた〉(笠原和夫『映画はやくざなり』)
呉から戻ってきた笠原は、美能の手記を熟読し、頭を抱えた。「複雑怪奇」「極めてややこしい」「奇妙奇天烈」「捧腹絶倒のズッコケ」などの言葉で、脚本化の困難さを語っている。さらに、美能がまだ映像化をOKしていないので、原作をそのまま使うことはできない。
笠原は悩んだあげく、会社に対し「広島事件は複雑すぎて処理できない。呉の抗争事件だけなら纏めてみる」と話した。それでも脚本に手を付けかねて四苦八苦していたある日、一本の映画と出会う。笠原がたまたま入った映画館で観たのは、日活ロマンポルノの「一条さゆり 濡れた欲情」(監督・神代(くましろ)辰巳)だった。
一条さゆりは関西ストリップの女王と呼ばれ、引退公演では猥褻物陳列の容疑で逮捕されている。ステージの十八番には、「緋牡丹博徒」の主題歌に合わせて踊る“緋牡丹お竜”があった。
〈一条さゆり、白川和子、伊佐山ひろ子の三女優の裸身が、文字通り組んずほぐれつ、剥き出しの性本能をぶつけ合う一時間あまりの映像は、この上なく猥雑で、従って真実であり、固唾を呑む暇もないほど迫力があった〉(笠原和夫『破滅の美学』)
笠原はこれからの映画はこうでなければならないと思い、「一条さゆり 濡れた欲情」の迫真性ある手法をもってすれば「仁義なき戦い」の材料は捌(さば)けるという、強い自信を抱いた。
笠原はまた、方言の台詞を書くのも好きだった。社長の岡田茂が広島出身なので、シナリオの出来不出来について怒鳴られるときは、いつも広島弁である。
「こんなが、詰まらんもん書きくさって!」
耳慣れているので、あの方言と語調をそのまま真似て書けばいい。
キャスティングへ
笠原はいつもシナリオの筋書きを巻紙状に作る。何メートルにもなる巻紙を壁にぐるりと貼り付けてから、執筆を始めるのだ。執筆中は部屋の窓に覆いを掛け、暗室状態にした。
そうして約2カ月かけて脚本を書き上げると、会社の方針が変更されていた。白黒の添え物映画ではなく、普通サイズのカラー映画で時間も長くていいと、スケールアップしていたのだ。
ここからキャスティングが始まるのだが、主人公、重要な脇役たち、監督、キャメラマンなどの選出に紆余曲折があった。
まず、文太が演じることになる主人公の広能昌三については、渡哲也が本命だったという話がある。プロデューサーの日下部は、こう振り返った。
「僕はもの凄く彼(渡哲也)に出てもらいたくて、熱海の病院で療養していたところを訪ねたんですよ。彼を説得するために。そうしたら、胸を患っていて、まだ体力が回復していないと。この通り、作品に出られる身体ではないので申し訳ないと、断られたんです」
療養が必要と聞き、日下部は渡を諦めた。その後に浮上したのが、文太の名前だったという。
「外で(主役を)探さなくても、うちにいるじゃないかという話になって、文太に決まった」
文太が週刊誌の連載を読んでいて、俊藤に「これをやりたい」と頼んでいたことも幸いした。
続いて松方弘樹が、最後に殺害される若頭・坂井鉄也役に決まった。松方の名前は当初、広能昌三役としても挙がっていたが、普通サイズのスケールの映画だと松方ではまだ弱いという理由で、急遽、文太に決まったという話もある。
この頃、松方はいずれ親(近衛十四郎)の七光りが消えて、自分も消えてしまうのではないかという危機感を持っていた。キャスティングが決まったときには、ここが俳優としての正念場だと思い、腹を据えて撮影に臨んだという。
次に作品全体の狂言回しとも言える山守組組長・山守義雄役は、当初、三國連太郎の名前が挙がっていたが、岡田茂が「三國では映画が暗くなる」と却下した。岡田は「岡山の出身なので、広島弁のイントネーションが上手い」という理由をつけて、金子信雄を推した。金子は東映映画に何十本も出演しており、どんなに悪辣、非道な役を演じても、どこかしら憎みきれない愛嬌がある。岡田は、そんな金子を買っていた。金子は実は岡山ではなく、東京の出身だったのだが。
ところが、撮影が間近に迫ったとき、金子がひどい風邪をひいて入院してしまった。そこで芸達者な西村晃の名前が浮上したが、金子は、この役はなんとしても自分がやりたいと思い、病院を抜け出してきた。「死んでもやるから、やらせてください」などと声を震わせながら直訴する金子を見て、岡田は配役を決定する。
監督と脚本家の因縁
肝心の監督は、最も難航した。俊藤は「現代やくざ 人斬り与太」「人斬り与太 狂犬三兄弟」で起用した深作欣二の演出を気に入っており、再び文太と組ませれば実録映画という名にふさわしい作品になるのではないか、と構想していた。
だが、京都撮影所内で「深作は東京撮影所の監督だ。あれを連れてこなくても、京都には工藤栄一や中島貞夫がいるではないか」という声が上がる。「深作は扱いにくいし、大きなヒット作がない」というのも反対の理由になった。
岡田茂は逆に、深作は反抗的だからこそいい、と考えていた。
〈深作はいうことをきかないんだよ。僕のいうことを。「おまえはダメだ」っていうても「それはですね……」ってむにゃむにゃいいながらきかないんだよ(中略)。こういうやつは見どころがあると思ったね。これだけ僕の前でも盾ついて絶対いうことを聞かないのは才能あるわ、と〉(山根貞男・米原尚志共著『「仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』)
岡田も深作の起用に賛成したが、一番の難関が控えていた。脚本の笠原が、深作の名前を聞いたとたんに、強い拒絶反応を見せたのだ。なぜだったのか。
64年、笠原が「顔役」(監督・石井輝男)の脚本を書いていたときに、深作との間でトラブルが起きた。当初は深作が監督に決定していて、脚本の第1稿も会社からOKが出ていたのだが、深作が脚本を直したいと言ってきたのだ。
〈東(東京撮影所)の深作、西(京都撮影所)の加藤泰と言えば、鬼神も三舎を避けると言われるほど、引くことを知らぬ、粘りに粘る監督さんである。しかしこちらも直したってギャラが増える訳ではないから、抵抗を試みた〉(前出『映画はやくざなり』)
抵抗はしたものの、深作は「人物に一貫性がない」と主張して譲らなかった。笠原は仕方なく深作と二人で直しを始めたが、深作のパートが遅々として進まない。深作はこの頃、東映専属の中原早苗と親密な関係になっており、そちらに気を取られていたのである。
怒った笠原は「いい加減にしろ、ふざけんじゃねえ!」と吐き捨て、宿を飛び出した。
翌日、深作は会社の会議中に血を吐いて倒れた。胃潰瘍だった。そのあげく、深作は監督を降り、石井輝男がリリーフしたという経緯がある。
前例を踏まえ、笠原は俊藤に強く念を押した。深作が脚本を読んで何を言おうと、一行一句直させない、と。胸の内では、もし、深作が直しを要求してきたら、脚本を引き上げ、映画の企画を流してやろうとまで考えていた。京都の連中は深作の恐さを知らないのだ。
俊藤に念を押した2日後の深夜、笠原の自宅に電話が入った。
「あれを、そっくりそのままやらせてもらいます」
深作の声で、脚本の直しは一切いらないという。しかも、脚本の出来をしきりに褒めるので、笠原は拍子抜けして「あなた、本当に深作さん?」と聞きたくなった。
深作は、後日、笠原の脚本を読んだときの感想をこう語っている。
〈大変面白かったですね。笠原(和夫)君は広島弁を見事に駆使しながら、あの頃の魅力的なヤクザ群像を活写して、優れた青春映画に仕立て上げていた〉(同)
こうしてようやく監督も主だったキャスティングも決まったが、クランクインまでに解決しなければならない問題が、まだいくつも残っていた。
美能を承諾させた決め手
クランクイン1週間前になっても、深作欣二は京都撮影所(京撮)に現れなかった。
「仁義なき戦い」のスタッフはほとんどが京撮の人間で、さまざまな打ち合わせが必要なのだが、東京から動かずにいた。不安材料が残っていたからである。
深作は映画の要となるキャメラマンに「現代やくざ 人斬り与太」や「人斬り与太 狂犬三兄弟」で組んだ仲沢半次郎を希望した。今回も仲沢の手持ちキャメラで撮影したいと伝えたのだが、会社は京都のキャメラマンを使え、という。また、原作の手記を書いた美能幸三がいまだに映像化を渋っているという話も耳に入っていた。いわば、見切り発車の状態にある。
さらに私生活では、この年(72年)の9月に長男の健太が生まれていた。深作は42歳、妻の早苗が37歳である。初めての子供なので、喜びはひとしおで、できることなら毎日、顔を眺めていたい。東京から離れがたい思いだった。
ただし、「仁義なき戦い」は、自分が監督するという意志は揺らがなかった。
〈第一部の準備稿を読み終わった時、正直な話、私は眼を洗われたような思いだった。というのも、その時期私が模索しつつどうしても掴み切れなかった世界がみごとに描きつくされ、お前のやりたかったものはこれだろうと突きつけられたためである〉(「シナリオ」74年7月号 シナリオ作家協会)
結局、深作が京都入りしたのは、クランクイン3日前だった。撮影を担当することになったキャメラマンの吉田貞次は、当時の混乱をこう回想している。
〈もうディスカッションもなにもする暇がない。なにを考えているのか互いによくわからないまま、ぶっつけで撮影に入った記憶があります〉(前出『「仁義なき戦い」をつくった男たち 深作欣二と笠原和夫』)
京撮の関係者は少なからず戸惑っていたが、深作は、意に介する様子はなかった。菅原文太はそんな深作の態度を、当然だと言う。
〈あの人は物怖じしない人だから(笑)。初めての陣営に乗りこんで、結構最初から平気でマイペースを通しきっていたからね〉(「アサヒ芸能」2014年12月25日号)
クランクイン直前まで揉めていた美能幸三の許諾については、最終的にゼネラルプロデューサーを務める俊藤浩滋がまとめた。
説得は難航を極めており、日下部が飯干晃一や京撮の所長だった高岩淡らを連れて、なんども呉を訪れたが、美能の態度は変わらなかった。週刊誌の連載だけでも組関係が大騒ぎになっているのに、映画になったらどんなことが起きるか。身の安全を考えれば承諾できない、という。
そこで俊藤は、昔の伝手を頼った。俊藤にしかできない解決法である。
〈ボンノこと菅谷政雄組長の舎弟だった波谷守之さんという同じ呉出身の親分が中に入って話をまとめてくれたんです。この波谷組長の親分筋にあたる人に、原爆で亡くなった広島の渡辺長次郎親分がいて、私がかつて若い頃、親しくしてもらっていた五島組の大野福次郎親分と偶然、兄弟分だったんです〉(「アサヒ芸能」99年4月1日号)
波谷守之は、美能が服役していたとき面会に行き、カタギになることを強く勧めた人物である。美能は今回もまた波谷の説得を受け入れて、映像化を承諾した。
初めて笠原和夫のシナリオを読んだとき、美能はいくつかのクレームをつけたが、その後はおおむね協力的だった。例えば、美能の背中には大きな鯉の刺青が彫られており、それを文太の背中に再現してポスター撮影することになった。鯉の刺青は臀部(でんぶ)まで延びていて、全体を見るためには美能に裸になってもらう必要がある。スタッフが恐る恐るお願いすると、美能は「ええよ」と、あっさり脱いでくれたという。
ただし、「仁義なき戦い」というタイトルは、最後まで嫌がった。〈自分は仁義を求めて生きてきた。計算ずくでヤクザは生きてられるもんじゃない〉との思いからである。
俊藤はまた、俳優たちのキャスティングでも手腕を見せた。
〈1作目の松方弘樹の役を、当初、僕の下におった日下部プロデューサーが小林旭を持ってきたんですよ。僕は、松方がいるんやからダメ、と〉(同)
松方が演じた山守組組員・坂井鉄也役は文太との絡みが多く、悲劇的な最期を迎えることで、強い印象を残す。坂井の死が次なる抗争を招くのだが、小林旭では格好が良すぎて、坂井の小心さ、脆さ、人の良さは表現できなかっただろう。