任天堂・中興の祖「山内溥」 かつて「会社に必要なのはソフト体質の人間」と語った意味

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「ソフトを作る男」が後継者

 冷徹な事業家と評されていた山内博が、我が子と同じ任天堂に強い思い入れがあるのは分かっていた。だが、「条件次第で、最後にして最大の決断(会社の売却)をするのではないか」と息をひそめて待っていた業界関係者がいたのも事実である。ビル・ゲイツは任天堂獲りに失敗した、というのが歴史の結論である。

 溥が後継者として白羽の矢を立てたのは岩田聡である。1992年、任天堂とファミコンを共同開発していたHAL研究所が倒産した。任天堂が支援の条件として出したのが、HALの取締役だった岩田をHALの社長にすることだった。

 岩田は札幌南高校時代にゲームをたくさん作り、「札幌の天才少年」と呼ばれた。溥は「誰よりも面白いソフトを作る」岩田の特異な才能を高く評価していた。

 HALの経営再建を成し遂げた岩田は任天堂の役員に招聘された。そして2年後の2002年、山内は岩田に社長の椅子をバトンタッチ。第一線から半歩退き、取締役会長になった。

 溥は前掲の『日経ビジネス』のインタビューでこう答えている。

《「僕が岩田を社長にしたのは(彼がソフト体質の経営者だったから)、いや彼だけじゃない、任天堂には今6人の代表取締役がいるけど、それは結局、体質がハードでないはずや、という判断をしたからだ」》

赤字転落の衝撃

 岩田は巻き返しに出た。ソニーはハードが主でソフトが従の路線をとっていた。任天堂は真逆のソフトが主でハードは従とした。先端技術を駆使し、多機能性を追求しただけでは、楽しさや面白さに直結しないことを、溥の“直弟子”の岩田は体で知っていた。

 ハードの操作はあくまで簡単にして、楽しさに徹した。その第1弾が、04年12月に発売した携帯用ゲーム機「ニンテンドーDS」。第2弾が06年12月に発売した据置型ゲーム機「Wii」。いずれも世界的に大ヒットし、任天堂は世界に冠たる優良企業に成長した。任天堂の身売りの話など雲散霧消した。05年、溥は相談役になった。

 ところが、10年9月中間連結決算は赤字に転落。「任天堂の成長神話は、ひとまず終わった」とアナリストは言い始めた。

 これはゲーム会社の宿命みたいなものなのだ。娯楽というものは飽きられるものだからである。ここが生活必需品と根本的に違う点だ。娯楽は飽きられる運命にある。顧客に手に取ってもらえるかどうかは、素晴らしい発想で、どこにもない新しい商品を産み出すことができるかどうかで決まる。それができるのが、山内博が言うところのソフトな体質の経営者なのだ。

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