彭帥問題で中国当局の肩を持つIOC「バッハ会長」 歴史を動かす危険な一歩か
「ぼったくり男爵」バッハ会長
私たちが住んでいる自由主義社会の空気感で言えば、あらゆる人の平等と人権を尊重するのは大きな時代の要求であり共通のテーマだ。夏の東京2020でもこの実現が主要な課題のひとつとされたのは記憶に新しい。アスリートや世界のスポーツ・ファンがIOCバッハ会長に望んだのは、事実の解明と中国社会の改善を求める行動だったはずだ。ところが、期待に反してバッハ会長はこともあろうに中国当局の肩を持つ行動に出た。その衝撃と落胆はあまりにも大きい。
日本では「ぼったくり男爵」の蔑称が歓迎され、行き過ぎた商業主義の象徴的存在とみなされている。それももちろん問題だが、今回の行動はそれ以上にIOCとオリンピックの根幹に関わる暴挙だと、多くの人が感じているだろう。
これがどんな波紋を呼び、アスリートや多くのスポーツ・ファンがオリンピックに対してどう考えを変え、そのことがどんな行動に結びつくかはまだわからないが、このまま何も起こらなければ、今度はそれ自体が問題だと非難の的になるだろう。このようなIOCと中国の姿勢を容認して、粛々と北京五輪に参加することが「スポーツマンシップ」と言えるだろうか? 各国政府以上に、参加を目指している選手ひとりひとりが胸に手を当て、参加の是非と今後取るべき針路を深く問うべき責任に直面している。
選手にとってオリンピックは人生最大と思うほどに大きな目標であり、オリンピックの成績がその後の人生を左右するのは誰もが知るとおりだ。しかし、オリンピックがお金にまみれ、政治的思惑に完全に利用されているなら、強く改善を求めるべきだろう。そのような汚れた舞台を選手が名声と巨額の収入を得るために利用するなら、選手もまた同罪と言われても仕方がない。
新しいスポーツの祭典をアスリートたち自身の手で提唱し、新しいパートナーたちと生み出す努力をすべき時が来たのではないか。
「オリンピックに政治を持ち込むな」は大切な原則だが、それはむしろ「オリンピックを政治に利用している人たち」が、「自分たちの行為や政治的思惑を隠す目的」で使われる場合が少なくない。
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