芸能生活52年 「由紀さおり」が振り返る「ドリフ」「家族ゲーム」「2度の挫折」

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CMソング界に参入も…

 苦労のない芸能生活だったように見える。「夜明けのスキャット」がいきなり160万枚も売れた。2011年にはピンク・マルティーニとのコラボレーション「1969」が50ヵ国以上でCD発売・配信され、大ヒットした。

 だが、本人は何度か挫折感を味わっているという。

「幼いころから、ひばり児童合唱団に所属していて、そこでオーディションに受かり、ソロデビューさせてもらったんですけど、世には出られなかったんですよ」

 本名の安田章子で「ヒッチハイク娘」などを歌った1965年から1966年のことだ。

「当時は歌手がみんなで新聞社に売り込みに行ったんですが、ヒットの兆しがある人とない人では扱いが全く違うんです。私なんて見向きもされませんでしたよ」

 その後、NHK「おかあさんといっしょ」でうたのおねえさんを務める一方、「おもちゃのチャチャチャ」などをつくった作曲家の故・越部信義さんに薦められ、CMソング界に参入し、約300曲も歌った。

「当時はレコード歌手としてはダメだったわけです(笑)」

 だが、やがてCM界の巨匠でもあった故・いずみたくさんのCMソングも歌うようになり、これが「夜明けのスキャット」につながった。いずみさんが音楽を担当していたTBSラジオの深夜放送のオープニング曲を「好きなようなように歌ってごらん」と任されたのだが、それが「夜明けの――」だった。

♪ルルル ラララ……いずみさんの言葉通り、由紀は思ったままのスキャット(意味のない音)を歌にした。

 オープニング曲なので最初はレコード化の予定がなかった。ところが、放送が始まった途端、大反響となり、急きょレコード化することに。それに合わせ、作詞家の山上路夫氏(85)がスキャットではない2コーラス目の詞を書いた。

「『もしかしたら自分はこの業界に残れるかもしれない』と思ったのは翌1970年の『手紙』がヒットした時ですね」

 作詞は故・なかにし礼さんだった。

「あらためて、なかにしさんの洞察力を痛感しています。まだ女の人から別れ話を切り出せるような時代じゃなかったんですが、この歌の女性は置き手紙をして自分で出て行きます。なかにしさんは時代を先取りしていました」

2度目の挫折は「紅白卒業」

 その後も「挽歌」(1974年)「う・ふ・ふ」(1977年)などがヒットするが、2度目の挫折を1979年に経験した。10回連続出場していたNHK紅白歌合戦を「卒業」という扱いになったのだ。紅白が歌手たちの大きな目標だった時代だ。

「あの時は自分が歌を歌っていて良いのか、自分が歌うべき歌はどういう歌なのかを考え込んでしまいました。まだ若かったですからね」

 ところが、紅白への出場はそこで終わることはなかった。姉の声楽家・安田祥子(80)と1985年に童謡アルバム「あの時、この歌」を出し、1986年から童謡コンサートを行っていたところ、このアルバムがヒットし、同年の日本レコード大賞企画賞を受賞。1987年に再び紅白に招かれたのだ。

 この年の紅白では「赤とんぼ~どこかに帰ろう」を歌った。その後もソロで2回出場。1992年には同じ「赤とんぼ」でトリを務めた。1989年からは安田と一緒に計10回出ている。卒業はどこかへ行ってしまった。

 現在はコンサートツアーに臨んでいる。12月9日には安田と一緒に横浜・関内ホールのステージに立つ。

「姉が『もうちょっと歌いたい』と言っているうちは、私も頑張ってくっ付いていこうと思います。やれるところまでやって、散っていくのが良いのかなって。フフフ」

 人知れず由紀が味わっていた2度の挫折。たぶん、それが本人をより強くしたのだろう。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

デイリー新潮編集部

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