江藤淳とジョン・ダワー――思想的立場の違いを超えて彼らが見た「近代日本」
「近代化」は欧米を先頭に進むとする歴史観はベトナム戦争を思想的に後押しした。しかし、そこに垣間見える「上から目線」に反発し、「並行し、競い合う『諸近代』」という考え方を打ち出したアメリカの歴史家ジョン・ダワー。同じく「近代化論」を批判した江藤淳との、左派・右派の枠組みを大きく超えた交流は今なお興味深い。その詳細を、ジャーナリスト会田弘継氏による『世界の知性が語る「特別な日本」』(新潮社)からそのエッセンスを抜粋・再構成して紹介する(前篇からつづく)。
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アメリカの歴史家ジョン・ダワーが戦争に関わること一切をただ否定的な目で見ているのかというと、そうでもない。歴史家として、戦争の時代の中で競い合い、相互に影響し合う諸近代を深く見つめている。日中戦争から太平洋戦争にかけての戦意昂揚映画を分析した1987年のダワーのエッセー「日本映画、戦争へ行く」(みすず書房刊『昭和』に収録)は、好例だ。ほとんど顧みられることのなくなったこれらの映画を論じた中で、ダワーは次のようなエピソードを紹介している。
日米が開戦してしばらく経った1943年春、ハリウッドの映画監督らが、37~41年にかけてつくられた約20本の日本の戦意昂揚映画を見て、欧米の同種の傑作よりも優れているとの見方で一致した。戦意昂揚映画「なぜ我々は戦うのか」シリーズで著名な名監督フランク・キャプラにいたっては、『チョコレートと兵隊』という1938年の日本の戦意昂揚映画を見て「こんな映画にわれわれは勝てない。あんな映画をわれわれがつくれるのは10年に一度だろう。われわれにはこんな俳優たちもいない」と称賛せざるを得ないほどだった。
これは明らかに、欧米が先行した近代化の一本道を、後進日本が「模範生」としてたどっていくという見方からは出てこない、日本近代だ。さらに興味深いのは、戦争をモチーフとしたデザインが凝らされた、戦時中のキモノ用織物だ。ダワーはこれについてもエッセーを書いている(「日本の美しい近代戦」、2005年)。デザインの大胆な「近代性」に驚いている。これも一本道でない近代化を示す小さな例の一つかもしれない。
ダワーが発見した日本のモダニズム
著書『容赦なき戦争』(1986年)で、ダワーは戦時中の日米双方が競い合うようにして、相手に対する人種差別意識を煽る姿を、ポスターや風刺漫画などを素材にして描き出した。それ以降、顕著に見られるビジュアルな題材へのダワーのこだわりは、マサチューセッツ工科大学(MIT)の巨大なビジュアル歴史資料サイト「文化の可視化」へと発展した。このサイトで日米関係資料をたどると、『容赦なき戦争』でも描かれたような、並行し、競い合う日米双方の「近代」が浮かび上がってくる。
戦意昂揚映画やキモノ用織物に表出された、日本の大衆芸術の先進的近代性(モダニズム)は欧米の後を追うだけでない。並行して進んで、時には一挙に追い抜いていく。
「自分は視覚的人間だと思う。(片耳が)難聴のせいだ。学生時代にそのことに気付いた。祖父が画家だったこともあり、子どものころから視覚的なものに興味があった」
リベラルアーツ系の名門アマースト大学での学部生時代、ダワーの専攻は文学だった。19世紀アメリカ文学の巨匠ハーマン・メルヴィルの『白鯨』が卒論のテーマだったという。アマースト時代の1950年代末に金沢を訪れ、日本に関心を持った。ハーバードで修士課程に進み、はじめは森鴎 外を研究している。その後、日本で英語教師や出版社編集者を務め、1971年に日本の紋章を網羅した『日本デザインの要素』(邦訳『紋章の再発見』)という本を出版、紋章の由来などを詳細に解説している。
いま、その本をひもとくと、当時30代前半だったダワーは、日本の紋章が平安時代末期から鎌倉時代にかけての戦乱の中で、敵味方の区別を容易にするために使われはじめたと、起源を説き起こしている。ヨーロッパの紋章が「歴史的遺産」なのに対し、日本の紋章は「芸術的遺産」として残っている点が、大きな違いだと指摘している。
つまり、ダワーは日本の紋章の方がヨーロッパのものに比べて、ずっと芸術性が高いと見た。その芸術性は、のちにダワーが戦争を扱った日本の映画や織物デザインの中に見いだしたものと通底する。これらを結ぶのは日本のモダニズムだ。美に敏感なダワーは、紋章デザインに、すでに時代を飛び越えた近代性、すなわちモダニズムの発現を見ていた。戦争の中で生まれたモダニズム芸術という、彼が強い関心を抱くテーマである。
ベトナム戦争を支えた、欧米を先頭に進む近代という思想「近代化論」。そこにのぞく傲慢さに反発して生まれたダワーの「並行し、競い合う諸近代」という考え方は、日本の美術や文芸への理解に支えられている。ダワーは独特の作法で、われわれの日本近代への理解を深めてくれている。かつて重ねた対話を振り返って、そう思っている。
江藤淳との交友
進歩派・左翼とみなされたダワーだが、簡単にはレッテル貼りができない学者であることが分かるだろう。それは、戦後日本の代表的保守派論客である江藤淳との関係にもうかがえる。そのことに気付かせてくれたのは、平山周吉氏の浩瀚(こうかん)な伝記『江藤淳は甦える』(2019年小林秀雄賞受賞)だった。ダワーらがベトナム戦争の思想的基盤となった「近代化論」と、日本をその優等生とする考え方に反発していたのに先行して、若き日の江藤も「近代化論」に反発していた、と平山氏はいう。その理由は、江藤が文芸評論家エドマンド・ウィルソンの南北戦争期文学研究の大著『愛国の血糊』(江藤はタイトルに『憂国の血糊』の訳語をあてた)を読んで、アメリカの南北対立と近代の日米関係をパラレルに見る視点を得たからだ。
そこで平山氏が引用する江藤が述べたことは、かいつまんで私の言葉に置き換えると次のようになる。北部から「無条件降伏」を突き付けられて敗れた南部は、奴隷制を中心とするウェイ・オブ・ライフを強制的に変えさせられ、そのことをずっと恨みながら生きてきた。ウェイ・オブ・ライフは「生き方」だが、南部を一時離反した国家とみれば、「国のかたち」と言い換えてもいい。
そうした南部の姿は、黒船来航以来、アメリカをはじめ欧米の力の前に、独立を保つためウェイ・オブ・ライフを自ら破壊して生きてきた日本と同じ(パラレル)だ。むしろ、南部より悲惨といえる。「近代化」と称して、自らの「国のかたち」を破壊してきたからだ。江藤は、1960年代はじめのプリンストン大学滞在中に南部を旅行している。そこに依然残る貴族趣味と荒廃した黒人街の様子に南部人の抵抗を見て、北部の「正義」よりも、「偽りがない」ぶん、自分になじんだと打ち明ける。
平山氏による、この2~3ページほどの江藤の対アメリカ観と日本の近代観の叙述には、まさに膝を打ちたくなるところがあった。亡くなった文芸評論家の加藤典洋(1948~2019)も、2007年に出た江藤の『アメリカと私』(1965年刊)の講談社文芸文庫版に寄せた解説で、『憂国の血糊』を読んで江藤はアメリカ南部と戦後日本が似ていることを見つけ、それがその後の文学活動に反映されたとの趣旨を述べている。これは序章で触れた、フォークナーが南部・戦後日本を並行させて見たのと同じだ。
江藤は単に戦後日本だけでなく、まさに維新期の開国こそがすでに「南部(敗者)を生きる」始まりだったと述べて、近代化論・日本優等生論に反発した。
占領期検閲でも重なる立場
平山氏とは江藤の在米時代やエドウィン・マクレランとの交友について意見交換するため時々会っていた。あるとき「(日本では左右に分かれる)ダワーさんと江藤さんはウマが合ったらしい」と平山氏が言うのを聞いて、強い関心を持った。ともに「近代化論」批判者だが、ダワーの「諸近代論」と江藤の「南部・日本パラレル論」は違う。違ってはいるが、それぞれの書くものを読む限り、二人はともに奥底の方で日本の「近代を生きる苦難」を語るところが似ている。
長く文藝春秋社の編集者を務めた平山氏によると、江藤と親しかった同社の元編集者・役員の斎藤禎(ただし)氏が江藤とダワーの交友について知っているはずだとのことで、問い合わせてみた。斎藤氏によると、1980年に江藤がウィルソン研究所(首都ワシントン)で行なった占領軍の検閲研究の発表の際に二人は知り合い、その後、同年のアマースト大学(ダワーの母校)での「日本占領研究国際会議」、翌年の東京での吉田茂をめぐるシンポジウムでも会っている。
江藤による占領期検閲研究は日本では左派からも右派からも批判されたが、ダワーは当時、自らの占領研究で検閲制度に分け入っており、江藤の仕事を評価していた。それを知った江藤の「喜びは察するに余りあります」(斎藤氏)。ダワーはピューリッツァー賞受賞の『敗北を抱きしめて』(原著1999年刊)でも、江藤が自著のタイトルにした言葉「閉された言語空間」を用いて、占領軍の検閲を批判している。99年夏に江藤は自決したから、このことは知らなかった。「もし知っていたら、どれほど気を晴らしたことか」と斎藤氏は悔やんだ。
「近代化論」への反発だけでなく、左右に分かれる二人は、占領期検閲でも同じ立場をとっていた。江藤が1980年代はじめに『週刊現代』に連載していたエッセー「こもんせんす」の中にダワーのことを書いたものがあると斎藤氏から聞き、探してみた(没後20年たつが『江藤淳全集』が出ていないのは、日本文化にとって大きな損失ではないか)。
そのエッセーは見つかった。前述したように、1981年に帝国ホテルで開かれたシンポジウム「吉田茂・その背景と遺産」で江藤とダワーは出会っている。ダワーの著書『吉田茂とその時代』の邦訳第一部が出版されたばかりだった。それについてやりとりを描写した後、江藤は次のようにダワーについて語っている。
「この人は……立場は私などとは正反対、むしろ急進的といってもいい人ですが、日本の〝進歩的文化人〟に往々にして見られるあるタイプとはちがって、政治的意見の違いと人間的な交際とをごちゃまぜにしないところが、本当に気持がよい……無作法とイデオロギーの区別もつかない輩などとは、このダワー氏は全然別種の好紳士なのです。こういう紳士が、どうして日本の〝進歩的文化人〟には少いんでしょうかね」
このダワー評は、私が感じるところと一緒である。漱石学者マクレランと保守思想家カークやハイエクとの間で繰り広げられたドラマをダワーに語ったとき、急進的なくらい左翼の彼は耳を覆ったりはしなかった。むしろ膝を乗り出して聞き入り、「ファッシネイティング!」と感嘆した。先にも記したように、アメリカ人でも左派を自認する多くの知識人はカークやハイエクの話となるとハナから聞こうとしない。なにかにとらわれている、そうした姿勢を哀れに思うくらいだ。
江藤の名前を持ちだしても、日本の進歩派人士が見せるような反応はなかった。その背景がいま分かった。江藤自身も、左派と見なされる加藤典洋らを見つけ出し、評価し、日本の文学や批評の世界に送り出してきた。
江藤とダワー。ともに力を注いだ近代日本の軌跡の研究、占領期の探求。彼らが見据えようとしたものは何なのか。ダワーが見た日本とアメリカの並行する近代、江藤が見た南部と近代日本の並行、その違いと類似をどう考えるか。興味深いテーマだと思っている。
会田弘継(あいだ・ひろつぐ)
関西大学客員教授、ジャーナリスト。1951年生まれ。東京外語大英米語科卒。共同通信ジュネーブ支局長、ワシントン支局長、論説委員長などを務め、現在は共同通信客員論税委員、関西大学客員教授。近著に『破綻するアメリカ』(岩波現代全書)、『トランプ現象とアメリカ保守思想』(左右社)、『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫)など。訳書にフランシス・フクヤマ著『政治の衰退』(講談社)など。