『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワーが評価した、日本の戦意高揚映画と戦争モチーフ着物に見られる「近代性」
アメリカの歴史家ジョン・ダワーと深い親交のあるジャーナリスト会田弘継氏は、ある日「日本の明治維新とアメリカの南北戦争」を発端に「日本近代史観」について語り合った。アメリカ同様に「半封建・半近代」国家だった日本は、アメリカを後追いしながら近代化したのではなく、両国の通った道はパラレルだというダワーの指摘。それはベトナム戦争体験から導かれた、西欧主導の近代観への深い懐疑から生まれていた。
アフガニスタンでの米国主導の国家建設・民主化が失敗に終わり、その正当性が見失われたいま、ダワーの提出した相互に影響し合う「諸近代」という概念の持つ意味は重い。
会田氏の著書『世界の知性が語る「特別な日本」』(新潮新書)から、そのエッセンスを抜粋して紹介する。
被災者へのメッセージ
東日本大震災の発生直後、まず連絡を取ってみたのは、アメリカの歴史家ジョン・ダワー(1938~)だった。東北の被災者に、さらには日本人すべてに向けたメッセージを、とボストンの自宅に電話を入れて依頼した。敗戦後の日本社会を描き切った傑作『敗北を抱きしめて』(1999年)の著者である。いまこそ、きっと伝えたいことがあるだろう。そう思ったからだ。
だが、電話の向こうのダワーにはためらいがあった。自分が何かを書けば、「戦争」のイメージがつきまとう。これは戦争ではない、考えさせてほしい、という。日本の戦争だけでない。自国アメリカが迷い込んだイラク・アフガニスタンの戦争を語る時、いつも苦渋に満ちていたダワーの顔を思い出した。「メッセージを待ちます。書きたいと思ったら、書いてください。東北の人々に必ず届けます」
被災と戦争被害の連想に敏感だったダワーの口ぶりから、メッセージは来ないだろうと、なかばあきらめていた。1960年代にベトナム反戦を信条として生きた人の心のかたちに生で触れた気がした。ところが、およそ3時間後だったと記憶する。伝えておいたファックス番号にワープロで打ったメッセージが入り出した(当時、メールはほとんど使わない人だった)。
「被災者の皆さん、日本の皆さん。この悲劇は、私たちみなを結び付けています」。身近なところでアメリカ人たちが義援金を送ったり、チャリティー活動をはじめたりしている。「日本の試練に心を寄せる」市民活動が、いま世界中で起きている。そう日本人を励ました後、ダワーは戦争の記憶を綴った。
「津波の恐るべき破壊の映像を見ると、私は空襲で破壊し尽くされた1945年の日本の市や町に思いを致します……60を超える都市が廃墟となり、子どもも含め何十万もの人々が命を失いました。日本がどれだけ破壊し尽くされたか、今では覚えている人も少ないでしょう」
「……迅速な復興など想像もできないほどでした。日本人は献身的に一からはじめたのです……英雄的でした」
震災直後に始まったアメリカの動きを東北の被災者に伝えて勇気づけようとするメッセージだった。東北をはじめ全国の新聞に掲載された。戦争に触れる一節を書くのに、ダワーが苦しんでいたのを知っていただけに、思いが心に沁みた。この人の「反戦」は筋金入りだとも思った。
ヘンリー・ジェイムズと夏目漱石
ダワーについては、一般にアメリカの左派(リベラル)を代表する日本近代史研究者とみられている。しかし、その近代日本史観は、日本の知識社会が考える左派・右派の枠組みでは捉えきれないところがある。
理屈は後回しにしよう。2000年に『敗北を抱きしめて』でピューリッツァー賞を受賞して以来、ダワーは日本近代史専門家としての立場を超えて、アメリカの「戦争文化」を批判的に語る評論家として言論活動をするようになった。そのダワーの中の「ニッポン」を考えてみたい。
ワシントンに駐在していた2004年の冬、ボストンに仕事で出掛けた折りに、ふと思いついて旧知のダワーに電話を入れ、食事に誘ってみた。いろいろと彼の見方を聞いてみたい話が溜まっていた。一つは、エドウィン・マクレラン(1925~2009)のことであった。イェール大学教授だったマクレランはアメリカにおける近代日本文学研究の泰斗であり、夏目漱石研究の第一人者であった。『こころ』の名訳で知られる。
スコットランドにルーツを持ち、生涯英国籍を捨てなかったマクレランは、1950年代にシカゴ大学大学院でフリードリヒ・ハイエクのもと、自由主義思想を学んだ。後にノーベル経済学賞を受賞するオーストリア出身のハイエクは、当時は経済学から政治哲学や法哲学にテーマを移していた。そのマクレランが、なぜ漱石研究に入ったかについては、ここに詳しくは記さない(詳しくは拙著『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』の「エピローグ」参照)。幼い頃に亡くなった母親が日本人で、16歳まで神戸で育ったことと、ハイエクの下で思想史を学びながら、博士論文を書く段階に至って、漱石を取り上げるべき「思想家」として選んだことを指摘しておく。
マクレランは文芸評論家、江藤淳(1932~99)と、江藤がプリンストン大学で研究していた1960年代はじめに知り合い、生涯の親友となった。また戦後アメリカ保守思想史に大きな影響を及ぼした思想家ラッセル・カーク(1918~94)とも、カークがスコットランドに留学した1950年代から深い親交を結んでいた。マクレランが日米欧の重要な保守思想家らの結節点のような位置にいたことが分かろう。
ダワーを会食に誘った当時、私はマクレランとインタビューを重ね、その生涯を知り、文学観を理解しようと努めていた。マクレランが、19世紀末~20世紀初頭の代表的な米作家ヘンリー・ジェイムズ(1843~1916)と漱石(1867~1916)の比較に触れたことがあった。ともに似たような時代状況の中で、似たような課題に取り組んだが、漱石の方が一段と深いと彼が述べたのに、惹かれた。「あの時代に、都市に生きる近代知識人の孤独と苦悩を描いて、漱石を超える作家は世界にいない」
ボストンの宿泊先ホテルで朝食を一緒にしたダワーに、マクレランの半生や文学観、漱石とヘンリー・ジェイムズの比較について話した。その時のダワーの反応は「ファッシネイティング!」、強い関心と驚嘆の言葉で目を輝かせた。
この人は左派(リベラル)・右派(保守)の分断を超えて、モノを考えているなと直感した。アメリカ、特に首都ワシントンで左派の人を前にカークやハイエクのことを語れば、しかめっ面をする。はなから受け付けないような「分断」がある。右派もそうだ。アメリカに関わる日本人も、そうした分断に便乗して、一方に肩入れしアメリカ通を任じているのによく出くわす。情けないと思う。ダワーの名前を聞いただけで、「左翼」と断じて、あとは話が続かない。
閑話休題。ダワーがマクレランの話に強く反応したのは、自身の「近代観」と共鳴したからだろう。特に漱石とヘンリー・ジェイムズの比較は、ダワーを揺さぶったに違いない。実は、この朝食での会話の1年ほど前、ペリー来航からちょうど150年にあたる2003年の初夏、一世紀半にわたる日米の歴史をどう見るか、ダワーに話を聞きに行き、彼の近代観をつかみ取ったような気がしたことがあった。マクレランの話への反応は、その近代観にぴたりとはまっていた。
並行する日本とアメリカの近代化
1年前の話を踏まえて、朝食をとりながら、マクレランのことも含め、ざっくばらんに互いの日本近代史観を語り合った。単に歴史だけでなく、文学や経済史など雑多なことを3時間近く話した。いまでも、ホテルでの会話を思い出し、懐かしいと同時に、興奮がよみがえる時がある。われわれ二人の「放談」を合成したエッセンスは次のようなことだ――。
1860~70年代に起きた日本の明治維新とアメリカの南北戦争・同再建期は、世界史の中で同じ意味を持ったのではないかというところから、話は始まった。この二つの出来事は、日米という太平洋を挟んで向き合う二つの「半封建国家」を一挙に近代に突入させた。アメリカは南北戦争で北部が勝利するまで、「半封建・半近代」だった。18世紀末に政治的には先進的な共和制国家として出発しながら、国家の南半分で奴隷制が維持され、大農場所有者は欧州貴族をまねて生活していたのである。他方で北部は、欧州から自立した工業国家への道を歩み出していた。
一方、日本は維新に至るまで、幕藩体制・士農工商の封建階級社会であったが、商人社会を見ると驚くべき資本主義の発展を見ていた。典型は、大坂堂島の米市場である。18世紀初頭には世界に例を見ない大規模な先物市場(いまでいうデリバティブ取引)が形成され、それに伴う金融が高度な発展を遂げていた。高度な資本主義の発展と商人階級の興隆は、維新の重要な背景となっていく。日本もまた「半封建・半近代」であった。
この二つの半封建国家は、世界史的な必然の中で、ほぼ同時期に大きな変革を起こし、全面的に近代に突入する。それが、南北戦争と明治維新の意味だ。日本がアメリカに開国させられ、近代化を始めたというような単純な話ではない。アメリカは当時、工業化で一歩先んじた英国の繊維産業に南部の綿花を支配され、北部の工業化を競争で抑え込まれるという「外圧」にさらされ、南北戦争・奴隷解放による国家改造に乗り出した。アメリカの工業発展に必要な鯨油を確保するための捕鯨船に薪や水を供給させるため日本は開港を迫られ、その「外圧」が明治維新を導いた。日米ともに外圧にさらされた。その外圧の向こうには大英帝国を先頭に進む、世界的な市場(植民地)獲得競争があった。なかでも中国市場の争奪が焦点だった。
ダワーに堂島米市場の意味を話した時、強い反応があった。1980年代前半に私が大阪で事件記者をしていた当時、氾濫する先物取引詐欺の資金の一部が流れ込んでいたシカゴに調査に行ったことがあった。世界最大の先物取引所であるシカゴ商品取引所(CBOT)を訪ね、取引所史編纂室で専門家に会った。編纂室の歴史家から「19世紀半ばに発足したこの取引所は、江戸時代の堂島米市場の取引技法を学んで発展した。シカゴにとっての教師だった」と指摘された。そのとき、自分の近代観が変わった気がした。
米西戦争と日清戦争
日本が開国して一方的に「近代」を受け入れたのではない。日本から流れ出た「近代」がシカゴを変えていた。そのことに衝撃を受けた。考えてみれば、ワイダへの葛飾北斎の影響も同じだ。ある意味で突出して「近代的」だった北斎が、欧米の美の世界のモダニズムに大きな衝撃を与え、変貌させた。
明治維新・南北戦争以降の日米の近代化はパラレルだ、とダワーは断言した。鉄道や電信電話の敷設は競い合うように進んでいく。当初は日本が40~50年ほど遅れていたのが、あっという間に差が縮まっていった。
大きな転機となったのは1890年代である。大きく近代化を進めた日米はそれぞれに没落しつつあった旧帝国に戦いを挑んだ。日本が清帝国と戦えば(1894~95年の日清戦争)、アメリカはスペイン帝国と衝突した(1898年の米西戦争)。ともに勝利し、はじめて海外植民地を得る。日本は台湾、アメリカはフィリピンである。両国は欧州主要国の帝国主義戦争に参入していった。
「ペリーのころから日本もアメリカもほぼ一緒に発展し、近代化していった。一つの近代があって日本がそれに直面したのではなく、日本も含めいくつもの近代化の道があって、相互に影響し合い、競争しながら進んだ。日本はその中で欧米以外の国家としては驚くほど急速に近代化した」。当時書いた記事を引けば、ダワーはそのように語っている。
一つの近代(modernity)ではない。それぞれが歩んだ近代がある。ダワーは「諸近代(modernities)」という複数形を用いた。納得のいく近代観だった。この考え方に沿えば、漱石とヘンリー・ジェイムズを並べて、漱石が優れているとする見方も、すんなりと入って不思議でない。ダワーの「諸近代」という考え方が生まれた背景は、彼がベトナム戦争の時代を生きたことだ。そう理解した。
話はそれるが、後に私が邦訳に当たることになる、畏友フランシス・フクヤマの大著『政治の起源』(講談社、原題は「政治秩序の諸起源」)はもっと大胆だ。人類の近代的政治制度(国家・法の支配・民主的説明責任)は欧州啓蒙思想に始まるのではない。紀元前から始まるアジア、中東、欧州、北米……でのさまざまな動きが起源となって、近代的政治制度に向かういくつもの潮流をつくり出してきたという見方をとっている。
「近代化論」への反発
ダワーはベトナム戦争の時代にハーバードの大学院生として日本史、日米関係を研究し吉田茂の研究で博士号を得ている(1972年)。日本研究の一方でベトナム反戦運動にかかわり、ベトナム戦争を思想的に支えた米経済学者ウォルト・ロストウの「近代化論」を激しく批判した。
ロストウは1960年に主著『経済成長の諸段階』を著し、これに「非共産主義宣言」と副題を付けた。マルクスの階級闘争による社会発展理論の向こうを張る対抗理論を示し、ケネディ・ジョンソン両政権に加わって、ベトナム政策に深く関わっていく。ロストウの近代化論によれば、段階的経済発展で「離陸(テイクオフ)」を経て持続的成長段階に入ることで、高度消費社会を達成できる。西側先進国が途上国を正しく誘導すれば、共産主義化は起きない。そうした考えに基づき政策を立案し、当時アメリカが支援していた南ベトナムに応用した。この近代化論で「模範」とされたのが日本の発展であった。
駐日米大使を務めたエドウィン・ライシャワーら当時の有力な日本学者は、この近代化論に沿った日本史解釈を提示していたが、ダワーらベトナム反戦の若手学者らは、この一本道の段階的近代化論が持つ欧米先進国の「上から目線」に反発した。ダワーは、冷戦期に「赤狩り」の中で共産主義者のレッテルを貼られ自殺した、カナダの日本学者で外交官だったハーバート・ノーマン(1909~57)を再評価し、近代化論に対抗した。ただ、そのことをもって、ダワーにも左翼マルクス主義者のレッテル貼りをして批判するのは、単純すぎよう。そもそもノーマンの近代日本論の面白さは、マルクス主義史観というよりも、世界史的な枠組みでの叙述など、広い教養に裏付けられた歴史観にある。
一本道の近代化論に対し、あるときからダワーは競い合う複数の諸近代を対置した。すると、決してアメリカが先を行っているわけでないことが分かる(フクヤマもアメリカの近代政治制度の「遅れ」を指摘する)。日本が満洲事変以来、中国大陸で迷い込んだ道を、30年後にアメリカがベトナムで繰り返していることの愚劣さが見え過ぎるくらい見える。そのことが、9・11テロ後もダワーを激しい反戦に駆り立てた。そう考えると、筋金入りの反戦も理解できた。
ホテルでの朝食からまた3年ほど経った2007年、再びダワーをボストンに訪ねて包括的に日本観を尋ねた折りには、次のように振り返っている。ハーバードで日本史研究に入ったころ、「アメリカがベトナムでやっていたことは、かつて日本が中国大陸で行い、アメリカが酷すぎると非難したことと同じだ。そう思えた。三光(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)作戦だ。そのアメリカを日本が支えた。理解できなかった」。
では、ダワーが戦争に関わること一切をただ否定的な目で見ているのかというと、そうでもない。歴史家として、戦争の時代の中で競い合い、相互に影響し合う諸近代を深く見つめている。日中戦争から太平洋戦争にかけての戦意昂揚映画を分析した1987年のダワーのエッセー「日本映画、戦争へ行く」(みすず書房刊『昭和』に収録)は、好例だ。ほとんど顧みられることのなくなったこれらの映画を論じた中で、ダワーは次のようなエピソードを紹介している。
日米が開戦してしばらく経った1943年春、ハリウッドの映画監督らが、37~41年にかけてつくられた約20本の日本の戦意昂揚映画を見て、欧米の同種の傑作よりも優れているとの見方で一致した。戦意昂揚映画「なぜ我々は戦うのか」シリーズで著名な名監督フランク・キャプラにいたっては、『チョコレートと兵隊』という1938年の日本の戦意昂揚映画を見て「こんな映画にわれわれは勝てない。あんな映画をわれわれがつくれるのは10年に一度だろう。われわれにはこんな俳優たちもいない」と称賛せざるを得ないほどだった。
これは明らかに、欧米が先行した近代化の一本道を、後進日本が「模範生」としてたどっていくという見方からは出てこない、日本近代だ。さらに興味深いのは、戦争をモチーフとしたデザインが凝らされた、戦時中のキモノ用織物だ。ダワーはこれについてもエッセーを書いている(「日本の美しい近代戦」、2005年)。デザインの大胆な「近代性」に驚いている。これも一本道でない近代化を示す小さな例の一つかもしれない。
(後篇へつづく)
会田弘継(あいだ・ひろつぐ)
関西大学客員教授、ジャーナリスト。1951年生まれ。東京外語大英米語科卒。共同通信ジュネーブ支局長、ワシントン支局長、論説委員長などを務め、現在は共同通信客員論税委員、関西大学客員教授。近著に『破綻するアメリカ』(岩波現代全書)、『トランプ現象とアメリカ保守思想』(左右社)、『増補改訂版 追跡・アメリカの思想家たち』(中公文庫)など。訳書にフランシス・フクヤマ著『政治の衰退』(講談社)など。