藤井聡太が早くも4冠 熱戦を終わらせてしまった豊島前竜王の「敗着」
1996年2月、羽生善治九段(51)が、当時の谷川浩司九段(59)から王将位を奪い、七冠全冠を同時制覇した。その時の対局場が山口県豊浦町(現下関市)で、既に撤去されたという建物跡に記念碑が建てられている。同じ山口県の宇部市で秋晴れの11月13日、若武者藤井聡太が羽生の持っていた22歳9か月という4冠達成時の最年少記録を大きく更新、デビューからたった5年の19歳3か月で四冠に輝いた。タイトル数は時代で違うが過去、四冠達成者は6人で快挙は28年ぶり。達成時の「年少年齢」は3位以下、中原誠(74)、谷川九段、大山康晴(故人)、米長邦雄(故人)の順。現役は谷川だけで大棋士ばかりだ。【粟野仁雄/ジャーナリスト】
【写真5枚】竜王奪取から一夜明けた会見、色紙に揮毫した言葉は
市制百年記念で対局を誘致した宇部市の篠崎圭二市長は藤井聡太の快挙の翌朝(14日)、「ここで決まるとは思わず、準備されていた他の自治体の方に申し訳ない」としながらも、「藤井竜王に宇部ラーメンがおいしいと言っていただきありがたい。宇部市には彫刻家もいらっしゃるので(記念碑も)検討したい」などと喜んだ。この日の朝、藤井四冠は直前の会見で「宇部ラーメン」の感想を問われて「昨晩、食べました。豚骨の匂いがすごくしたけど、食べやすくておいしかった」などと答えた。将棋の感想については「最高峰のタイトルなので光栄に思います」など四冠を決めた前夜の会見とさして変わらなかったが、8時頃に起きたという藤井は「初めて竜王という肩書を色紙に書いたりして、今後少しずつ実感する場面も増えてくるのかなと」と話した。この日は、「昇龍」と揮毫した色紙を持参し、撮影者に示していた。
現場で仰天した急展開
フォトセッションの時間が長くて質問時間が極めて短いために実現しなかったが、質問したいことがあった。終盤、豊島将之竜王(31)に109手目(3五桂馬)を指された瞬間の感慨である。
戦いを振り返る。初日、先手の豊島が角を早々に交換し、「腰掛銀」から4枚の銀が中央付近で睨み合う展開。初日終了時の藤井の封じ手「4五同銀」が13日朝、立会人の名物棋士、福崎文吾九段の手で開封され、一進一退の攻防となる。筆者は対局室や記者控え室のあるANAクラウンプラザホテルから徒歩10分ほどの「渡辺翁記念館」の大盤解説会場に足を運び、大勢のファンとともに戦局を見守った。解説は大橋貴洸(たかひろ)六段(29)と村田智穂女流二段(37)。藤井の8七飛車成の攻撃を見て「詰めよ(王手ではなく次の手で詰む手。詰めよとも言う)ですね。あ、詰むかな」などと何通りも検討していた。双方がっちりと自玉を囲ってはいない。あっという間に詰ませるか、逆に詰まされるかの「ノーガードの殴り合い」の緊迫した局面だった。「難しいですね」「わからないなあ」を繰り返した大橋六段は「駒を使ってもわからないのに二人は頭で考えるんですから大変ですね」と話した。
午後4時半頃から、豊島の手がぱたりと止まっていた。5時の大盤解説の小休止後も指さない。その時点でもスマホで見たAbemaTVのAI評価値は60%ほどで豊島有利を示していた。藤井は残り時間が9分、豊島は2時間以上残していて「藤井三冠はさすがに厳しそうだな」と感じた。6時に再び休憩時間になった。村田女流二段が「指しそうにないですね。しばらくかかるな。休憩しましょう」。大橋六段も「指したら飛んできます」で会場の人たちは席を後にした。筆者はタブレットを取りに行こうとANAホテルに戻った。ところが3階の記者控え室でパソコンを開いて仰天した。なんと豊島のAIの勝率がたった1パーセントになっているではないか。「そんな、アホな」。
慌てて毎日新聞のベテラン記者に尋ねると「豊島さんが3五桂馬を打ったら一挙に悪くなりました。このまま負けてしまえばこれが失着だと思いますよ」と話した。
3五桂馬は、藤井玉にとって脅威だった豊島の飛車筋を自ら塞いでしまうなど、デメリットも大きかったともみられる。もう、決着まで時間はかからなかった。2五金の藤井の王手。豊島はマスクを外してペットボトル飲料を口にした。しばしの静寂を置き午後6時41分、豊島は将棋盤に手をかざして頭を下げ投了した。すべてが終わったからだろう、感想戦は第3局の時ほどは長くなく、戦い終わった二人は黙々と駒を進めていた。
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