MVP大谷翔平 リトル時代の恩師が語る“変化と成長” 小6で見せた逆方向本塁打の原点

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ゲーム機を持っていなかった

 雑誌Numberに掲載されたインタビューを浅利も読んでいた。

「投手としての全盛時代はいまのところ小学校6年から中学1年のころだ、とNumberで言ってましたよね。たしかに、コントロールはよかったし、だいたい4球で三振を取っていましたからね」

 中学1年の夏、リトルリーグ東北大会の準決勝で「1試合17個」の三振を奪ったことがある。6回戦制だから、打者18人に対して17個の三振を奪ったのだ。

「あとの1個は三塁ゴロでした。ボテボテで見送ればファウルだったけど、子どもだからね、サードが一生懸命拾って1塁でアウトにした(苦笑)」

 見送っていれば、全部三振の記録も出来ていたかもしれない。

「翔平には何か教えたというより、とにかく自分で工夫して、考えて練習する子でした。投手としては、小学校3年の頃、スライダーの握りで手首をひねらずに投げるカットボールみたいな変化球を教えた。それを翔平は自分でいろいろ工夫してものにしたんです」

 その頃の練習熱心な姿勢が、いまに続いているようだ。

「とにかく野球が上手くなりたい、その一心で取り組んでいました。野球以外の余計なことに気持ちをそらさないしね。私は300人くらいの子どもたちと野球をやりましたけど、ゲーム機を持ってなかったのは翔平くらいでした」

 帰国後の記者会見で、「お金は貯まる一方」とさりげなく言って驚かせた大谷。野球以外に心をそらさない、それも稀有な才能というか、少年時代からの習慣なのだろう。

「リトルの練習は週末だけです。たいていの子どもは月曜から金曜まで休んで土曜の練習に来る。ところが翔平は違いました。練習のない5日間、ずっと自分で工夫して練習していたのでしょう。前の週とは見違える選手になって土曜日に来ることが珍しくありませんでした。そんな子はほかにあまりいませんでした」

摩耗させなかった環境

 そしてもうひとつ、運と言うのか、恵まれた星を大谷は持っていた。

「リトルの後のシニア(中学硬式野球)、それに高校でバリバリ投げさせられていたら、いまの翔平はないでしょうね。トミー・ジョン手術の後もこう順調に回復しなかったんじゃないか。翔平は、ほとんど投げていないんですよ」

 花巻東の佐々木洋監督は、県内の高校相手にはほとんど投げさせない方針だと言われている。主戦投手が県内で投げるのは夏の大会だけ。しかも大谷は、ケガもあって甲子園でも連戦連投したわけではない。最後の夏も甲子園に出場できなかった。そうしたケガが、逆に大谷を摩耗させず、のびのびと成長させる絶妙な防波堤になっていた。

 来季はさらに研究され、警戒もされ、「翔平包囲網」は厳しくなるだろう。だが、それさえも楽しんで乗り越えてくれるだろうと浅利は言う。

「負けず嫌いだからね。しかも洞察力がすごいしね。きっと、厳しくなればなるほど、それをまた楽しんで乗り越えてくれると思う」

 記者会見でも、「相手投手の攻め方が厳しくなって、なかなか甘いボールを投げてもらえなくなった後半戦に打ったホームランの方がうれしかった。前半戦のホームランは、甘い球が多かった」と大谷は言った。2021MVPに対して、いっそう厳しく立ち向かってくる相手との勝負を、大谷はさらに楽しむのだろうか。厳しい戦いの中でさらなる次元に立ち向かう大谷を応援するのが、楽しみでもあり、ちょっと怖いくらいの緊張感さえ覚える。(文中敬称略)

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

デイリー新潮編集部

2021年11月21日掲載

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