日本各地で鉄道事業を起こした渋沢栄一 「青天を衝け」で描かれなかった3人の鉄道人たち

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登場しなかった3人の鉄道人

 日本の鉄道史において、東武の根津嘉一郎、阪急の小林一三、東急の五島慶太など鉄道王と呼ばれる人物は少なくない。渋沢は彼らを凌ぐ鉄道王でもあるわけだが、「青天を衝け」で鉄道王としては描かれない。そのため、渋沢と深く関わった鉄道人も登場しない。

 ここでは、渋沢と深く関わりながらも「青天を衝け」に登場しなかった3人の鉄道人を紹介する。

 まず、一人目にあげておきたいのが、旧徳島藩主で明治期以降に東京府知事や貴族院副議長を務めた蜂須賀茂韶だ。

 徳島藩は名産の阿波藍によって江戸時代を通じて財政が豊かな藩だった。最後の藩主だった蜂須賀は廃藩置県後にオックスフォード大学へ私費留学。イギリス滞在中に岩倉使節団が蜂須賀を訪問するが、このときに蜂須賀は団長の岩倉具視に対して日本全土で鉄道建設を急ぐことを進言した。蜂須賀は鉄道が近代国家に不可欠であることを見抜いていたのだ。

 蜂須賀は1879年に帰国するが、そこで愕然とする。江戸時代に栄華を誇った大名たちの多くは没落しかけていた。そこで、蜂須賀は鉄道や銀行といった事業を興し、困窮する旧大名家の家臣や一族を雇用。同時に、資金力のある旧大名家には鉄道事業へ投資することを奨励した。

 鉄道事業や渋沢が取り組んだ銀行業は、これから必ず伸びる。だから、そこに投資すればいずれ配当所得を得ることができる。配当所得で生活を維持し、その間に生活の糧を得るための事業を興すように説いたのだった。

 前述した新橋駅-横浜駅間の鉄道を民間に払い下げる動きも、蜂須賀が提案者だった。蜂須賀が旧大名家から資金を募り、そして渋沢が政府との交渉役を務めた。

 新橋駅-横浜駅間の鉄道を払い下げてもらうことは叶わなかったが、その資金は日本鉄道の開業に活かされる。

 そのほかにも、蜂須賀は渋沢と協力して外客誘致や観光地開発を目的とする喜賓会を立ち上げている。同会は蜂須賀が会長、渋沢が幹事長を務めた。そして、政財界から多くの賛同人を集め、寄付金で会の運営を賄っていた。喜賓会も鉄道の発展に大きく寄与している。

東京駅も渋沢との関わりが深い

 2人目に紹介するのは、日本で鉄道の父と呼ばれる井上勝だ。井上も「青天を衝け」に登場していない。

 井上と渋沢との関わりは深く、新橋駅-横浜駅間の鉄道開業の際にも同じ一番列車の3号車に乗車。3号車には明治天皇や太政大臣の三条実美が乗車しているから、井上が鉄道の説明役を務めたことが窺える。

 明治新政府で重職を占めた長州藩出身者は伊藤博文・井上馨など数多いが、そうした逸材のなかでも井上は鉄道に関しては右に出るものがいないと評されるほどだった。その証拠に、明治政府は鉄道の所管を次々と変えたが、井上は退官するまで常にトップを務めた。

 井上は「鉄道は国家を支える根幹だから、国が計画・建設・運行にあたるべし」との意見を頑なに主張し、民間を重視する渋沢とは意見を異にしていた。しかし、鉄道の発展が国を富ませるという考え方は一致していた。

 そのため、政府の財政が逼迫して鉄道建設が滞ると、国力が衰えてしまうことを危惧。窮余の策として、渋沢たちの日本鉄道の開業も許可した。日本鉄道が鉄道を建設する際には、工事のための用地や作業員を斡旋するなどのサポートをしている。

 井上は政争によって1893年に退官を余儀なくされる。しかし、民間に転じてからも鉄道事業への情熱は絶やさなかった。鉄道網が全国へ拡大していく中で、井上は機関車の国産化に取り組む。

 当時、機関車は海外からの輸入に頼っていた。いくら鉄道網を拡大しても、肝心の車両がなければ運転本数を増やすことはできない。そうしたボトルネックを解消するべく、井上は汽車製造(現・川崎重工業)という車両メーカーを立ち上げた。

 井上が機関車の国産化に取り組むにあたり、渋沢は金銭・人的面で支援。1910年に井上はヨーロッパへ視察に出かけるが、現地で死去してしまう。

 井上の功績を惜しんだ後進たちが、井上の功績を顕彰するために東京駅の竣工と同時に造成された駅前広場に井上像を建立。その除幕式に、渋沢は列席して祝辞を述べている。

 その東京駅も渋沢との関わりが深い。1914年に開業した東京駅舎は赤レンガが美しく、100年以上の歳月を経過しても多くの人を魅了する。東京駅に使用された赤レンガは、渋沢が深谷で立ち上げた日本煉瓦製造や品川白煉瓦で製造されたものを使用している。

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