「笑い声は時として凶器になる」 ふかわりょうが五輪を巡る炎上騒動で感じた「周囲の笑い声の残酷さ」
生徒の容姿で態度を変える教師
私が中学生の頃に通っていた塾では、可愛い生徒には上品なトーンで、そうでない生徒には、それなりのトーンで名前を呼ぶ先生がいました。相手の美醜で態度を変えるという笑いは、当時、珍しいものではありません。笑い声が響く教室。ひどい扱いを受ける女子生徒が、自分のキャラクターをわかっているように振る舞っていましたが、本心はわかりません。深く傷ついていたなら、先生も、笑う周囲も同罪でしょう。
天然パーマの人の頭部に焼きそばのあんかけを無理やりかけて面白がっている様子がゴールデンタイムのお茶の間に流れていました。当時は、人が嫌がることをして笑うバラエティーのノリがありました。果たして、胸を痛めた人はどれくらいいたのでしょう。たとえ、やられる側が、これも仕事だと誇りに思っていたとしても、今は放送できません。
子供の頃の遊びにも、仲間はずれを生みやすい構造はありました。缶蹴りや、ジャンケンをして鬼を決める遊び。当時はそれで楽しかったのですが、油断すると、いじめの構図が生まれてしまう。今となっては残酷にすら感じるのは、自分が年を取ったせいでしょうか。なんでもかんでも厳しく取り締まると、手を繋いで走る徒競走や、全員が主役の学芸会になってしまうので、いい湯加減が必要ですが。
寛容さを保ちながら配慮する社会
最近は、容姿をいじる笑いについても問題視されるようになりました。とてもデリケートです。国民的アニメを見ても、容姿を面白さに結びつけているものはあります。たとえ本人が自虐でやっていても、今後は、「ブサイク」を笑うことは減っていくでしょう。また、自分自身が容姿で笑いを得てきたのに、今からそのシステムを否定するのは勇気のいること。捉え方によっては、散々CO2を撒き散らしておいて、自国が発展したら、他国にはCO2を出すなというようなもの。だから、人に強要するのではなく、自分で心に留めておけばいいのでしょう。
太っている人が機敏に踊っていると日本人は笑っていましたが、海外では笑いません。差別云々ではなく、文化の違い。ただ、これからは、国際的な基準が日本での笑いに影響を与えるでしょう。
「いやぁ、すっかり痩せちゃって」
「いや、肥えとるがな」
「すっかりフサフサになっちゃって」
「ハゲとるがな」
このやり取りを何も考えず笑っていられる世の中はもう来ないかもしれません。「あれ、これって笑っていいのかな」と。かといって、人の容姿に触れられない空気も恐ろしいです。人を傷つけてはいけないけれど、過剰に反応していたら、世の中がとても窮屈で、生きづらくなります。寛容さを保ちながら、配慮する社会であってほしいものです。
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