【袴田事件と世界一の姉】弁護団も驚愕した「巖さん」の釈放 急きょテレビ局が確保したホテルへ

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会見に挑むひで子さん

 一方、この日、執念の味噌漬け実験が実った司会役の山崎俊樹さん(「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」事務局長)は嬉しさのあまり、肝心のひで子さんの紹介を忘れて閉会しかける興奮ぶりだった。笑いながら登壇したひで子さんが「山崎さん、私を忘れちゃった。弁護士の皆様、支援者の皆様、外国の皆様、本当にありがとうございました。巖は帰ってきました」と力を籠めると大喝采。

「私は巖が帰ってきてくれただけでいいと思ってるんですが、みんな(記者たち)が31日の抗告はどうだとかこうだとか言えっていうんです。ノーコメントと申し上げております」と笑った。

 そして「私たちは6人きょうだいでして、兄2人は亡くなりました。女が3人いまして一番上は88歳、二番目は84歳かな。私は81歳。昨日姉に電話しましてね。『せっかくだから。会場で立ってるだけでいいから』と言ったんですよ。そしたら『行きたいけど腰を曲げて杖ついてるのなんて恥ずかしい』って言うんです。下の姉も『腰が痛い』。ほんとうは、3人きょうだい(姉妹)は美人ですから(会場爆笑)、お見せしたかったんですが、私一人でお礼を申し上げることになりました。私はね、母親の悲しそうな姿を今でも目にして(目に焼き付いて)いるんです。私のできる親孝行はこのことだけと思って巖を支援してきました。巖は帰ってきました。これだけで大変おめでたいことでございます。今は入院中ですが、調子がよくなりましたら会っていただきたく思います。皆々様、本当にありがとうございました」と満面笑みで挨拶し、マイクを置くと会場は大拍手に包まれた。

 肝心の巖さんの姿はまだない。だがこの日、弟の無実を信じて闘ってきたひで子さんは会場に入ってくると、駆け寄った支援者に記念撮影を求められるなど、スターのようだった。何があっても冷静なひで子さんも、さすがに嬉しさのあまり、上気した様子だった。

 1964年の東京五輪、新幹線開通など日本が高度経済成長真っただ中に突入し、列島に活気がみなぎった時代、キャリアウーマンとして「青春を謳歌していた」という袴田ひで子さんは、弟の逮捕で33歳にして人生が一変してしまった。巖さんの一審での死刑判決の直後にみるみる弱り、亡くなった母への親孝行として、半世紀間も「塀の中」の弟を支えてきた「世界一の姉」は、生来の笑顔を取り戻していった。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

2021年11月16日掲載

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