【袴田事件と世界一の姉】弁護団も驚愕した「巖さん」の釈放 急きょテレビ局が確保したホテルへ

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「巖が帰ってきただけでいい」 盛り上がった静岡の集会

 釈放から3日後の3月30日には、静岡市の労政会館で巖さん不在の報告集会があり、筆者も駆けつけた。西嶋勝彦弁護団長、小川秀世事務局長らが次々と登壇し経過を説明した。ある弁護士は「弁護団の中では『警察の証拠捏造』を前面に出さないほうがいいとの意見もあったのですが、小川弁護士が捏造で押し通したんです」と明かした。

 なんと、この集会に「死刑囚四大冤罪事件」のひとつ、1954年に起きた静岡県の幼女誘拐殺人「島田事件」で逮捕された赤堀政夫さんが登壇した。赤堀さんは、死刑囚として獄に34年8カ月繋がれ、1989に再審無罪となった。この時84歳。拘置所で歯がすべて抜けてしまい、言葉は聞き取りにくかったが、「昭和29年、幼女誘拐事件で逮捕された。(中略)市民が悪いのではなく警察が悪い」などと話し、「お姉さんにおめでとうと言いたい」と巖さんの釈放を喜んだ。壇上には「足利事件」の菅家利和さんと「氷見事件」の柳原浩さん2人の冤罪被害者も列席していた。

 そして新田渉世さんがマイクを持った。新田さんは国立大学(横浜国大)出身の元プロボクサーで、日本プロボクシング協会の中で巖さん救援活動の先頭に立ってきた人物だ。

「袴田さんは自由の身となり『日本のルービン・カーター』と言われる悪夢を経て正義が勝利しました」と挨拶した。

 ルービン・カーターとは米国のミドル級の黒人プロボクサーで、袴田事件と同じ1966年6月にニュージャージー州の酒場で3人の白人を射殺したとして逮捕され、終身刑の判決を受けた。のちにこの判決は誤りだと明らかになった。陪審員がすべて白人だったために、カーター氏に対する人種差別が引き起こした誤った判決だったのだ。

 カーター氏が獄中から無実を訴えると世論が高まり、「ハリケーン・カーター」のリングネームから、彼を支援する有名歌手ボブ・ディランの「ハリケーン」もヒット。映画化もされた。そして、1985年にようやく冤罪を晴らし出獄した。

 カーター氏は巌さんの釈放を支援してきた。彼はこの集会少し後の2014年4月20日、巌さんの釈放を見届けるように75歳で亡くなっている。

 今でこそ一流ボクサーはスターだが、1960年代、柔道や相撲が正当な格闘技と見做される一方、ボクシングは荒っぽい不良青年のやる喧嘩のようにも見られていた。

 ファイティング原田氏、輪島功一氏、矢尾板貞雄氏ら往年の名ボクサーや、現役時代の巖さんのライバルだった選手たちに加え、著名なボクシング評論家の郡司信夫氏らは、「袴田事件はボクサー崩れ」の言葉が象徴する当時のボクサーへの偏見が生んだ冤罪と考え、ボクシング協会あげて巖さんを支援してきたのだ。

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