【袴田事件と世界一の姉】弁護団も驚愕した「巖さん」の釈放 急きょテレビ局が確保したホテルへ

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 1966(昭和41)年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社「こがね味噌」の専務一家4人を殺害した強盗殺人罪で死刑が確定し、囚われの身だった袴田巖さん(85)が静岡地裁の再審開始決定とともに自由の身になったのは、2014年3月のことだった。実に47年が経ち、30歳で逮捕された男は、この時78歳になっていた。筆者が確定死刑囚の生の姿をテレビのニュースで見たのは、1980年代の「死刑囚四大冤罪事件」の免田事件(熊本県)の免田栄さんや、財田川事件(香川県)の谷口繁義さん(いずれも故人)以来だった。(連載第3回・粟野仁雄/ジャーナリスト)

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「飛び出してきた弁護士が垂れ幕を広げる前に“勝った”と確信しましたよ。『やった!』と思いました」

 裁判所の重要な判決や決定で、関係者や支援者に速報するため、弁護士が法廷から飛び出して「勝訴」などと書いた垂れ幕を広げるのは、ニュースでもお馴染みの光景だ。ちなみに、裁判所敷地内では示威行動に当たるとされるので、垂れ幕を広げられない。

 2014年3月27日午前10時過ぎに、静岡地裁で歴史的瞬間を見届けた「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹・事務局長が振り返る。山崎さんは、法廷ではなく裁判所の外でその瞬間を待っていた。再審請求審は公開されず、この日は刑事部の窓口で決定 文書が渡されるだけだった。

「紙なら弁護士が折り畳んで持っている時もピシッとしている。でも走っている弁護士が持っていたものは柔らかい感じで、布だと思ったんです」と山崎さん。若い弁護士が誇らしげに示した「再審開始」と書かれた垂れ幕は、山崎さんが雨天でも墨が流れないようにと染物屋で布を染めてもらい用意したものだった。

「駄目だった時の『再審棄却』と書いたほうは、あとで破り捨てようと思って紙にしていたんですよ」(同)

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