落合博満曰く「トライアウトは宝の山」 野球人生の崖っぷちから這い上がった奇跡の3選手

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「24時間野球のことを考えます」

 12月8日に12球団合同トライアウトが行われる。戦力外通告を受け、野球人生の“崖っぷち”に立たされた選手が、この「敗者復活戦」を経て、新天地で運命を切り拓き、もうひと花咲かせた例も少なくない。

 移籍先の球団でレギュラー獲りをはたしたばかりでなく、後には選手会長にもなったのが、森岡良介である。明徳義塾高時代の2002年夏の甲子園で、3番ショートとして同校初の全国制覇に貢献した森岡は、同年のドラフトで中日に1位指名され、背番号8をもらった。だが、“立浪2世”と期待された逸材も、在籍6年で出場39試合に終わり、08年オフに自由契約となった。2軍コーチと口論になり、1週間の謹慎処分を受けたことも影響したといわれる。

 現役続行を望み、トライアウトを受験した森岡に手を差し伸べたのは、ヤクルトだった。年俸も850万円から900万円にアップした。戦力外通告を受けた選手の昇給は異例で、球団側は「高田(繁)監督のたっての願い。期待の大きさから」と説明した。

 機動力重視のスモールベースボールを標榜する高田監督は同年、日本ハムで出場機会に恵まれなかった川島慶三を内野のレギュラーとして素質開花させており、同じタイプの森岡にも熱い視線を注いでいた。思いがけない“期待料”に対して感謝した森岡は「走塁技術とどこでも守れる守備と打撃をアピールしたい。休む暇はないと思って、24時間野球のことを考えます」と新天地での飛躍を誓った。

 そして、12年に10年目でレギュラー獲りを実現すると、3年連続100試合以上に出場。選手会長に就任した14年には、キャリアハイの打率.276を記録した。16年限りで現役を引退した森岡は「もともとは6年で終わっていたプロ生活。それがスワローズに拾っていただいて、何とか恩返ししようとやってきて、8年間やらせていただきました」と振り返っている。まさにトライアウトがもたらした運命の一大転機だった。

「現役は半分あきらめていた」

 一方、トライアウトを「宝の山」と評したのが、中日・落合博満GMだ。13年11月10日、静岡・草薙球場で行われたトライアウトを視察した落合GMは「面白い存在もいっぱいいたな。(チームの)足りないところをどうやって、この宝の山から探し出せるか」と発言した。「宝は誰か?」と周囲が注目するなか、指名されたのは、ロッテを戦力外になった外野手の工藤隆人だった。

 日本ハム時代の07年に13試合連続で「工藤が打点を記録した試合は負けない」の不敗神話をつくり、巨人時代には俊足堅守の外野手として貢献した32歳のベテランも、13年は1軍出場なしで終わり、「現役は半分あきらめていた」という。

 トライアウト参加も迷ったが、夫人に背中を押されて受験。その一方で、前日には、学生野球の指導者になるためのプロ側の研修会にも参加していた。そんな工藤に、落合GMは「選手としてどれだけ動けるかチェックする」と告げ、11月12日からナゴヤ球場で入団テストを実施。試合の重要局面での代走や守備要員が不足していた中日にとって、工藤は探し求めていた“宝”だった。

「ありがたい」と意気に感じた工藤は12、14日の紅白戦で5打数2安打を記録し、盗塁も試みた。11月20日、必死のチャレンジが報われ、「1軍で通用する」(落合GM)と合格通知をもらった。「一度は死んだ身。もう怖いものはない。自分の持っているすべてをドラゴンズに置いていきたい」ともうひと花咲かせることを誓った工藤は、17年に82試合出場するなど、5年間プレーしたあと、中日の1軍外野守備走塁コーチに就任。来季から阪神の2軍外野守備走塁コーチを務める。

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