白人の記録を破らないように脅迫され… 黒人差別と闘い本塁打記録を打ち立てたハンク・アーロン(小林信也)

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試合前に届く脅迫状

 アーロンが生まれたのは34年。家は貧しく、アメリカ社会は黒人少年の活動範囲をひどく閉ざしていた。アーロンは、インタビューに答えてこう語っている。

〈アラバマ州モービルには野球チームがなかった。だから僕はソーダの栓や、ぼろ布なんかを使ってやるしかなかった。もちろん七、八歳の頃、野球ボールというものがあることは聞いていたけれど、十三か十四になるまでは自分のボールを持ったことがなかった〉

〈その頃まわりで野球について考えている子供はそんなにいなかったから、僕はひとりで想像して遊んでいた。地面に三、四本線を引いて、何かの蓋を投げて打って、最初の線を越えたらシングル・ヒット、二番目の線を越えれば二塁打、三番目が三塁打、四本目がホームランというふうにね。そうやってプレーを学んだんだ〉

 これはNFLのニューヨーク・ジャイアンツの名キッカー、パット・サマーオールの著書『ヒーロー・インタヴューズ』(朝日新聞出版)に収録された回想だ。

 若い頃のアーロンはやせてガリガリで、動きの俊敏な二塁手だったという。18歳でニグロリーグのインディアナポリス・クラウンズに入ったころ、アーロンにホームランは期待されていなかった。メジャーのブレーブスに入ってからもしばらくは安打量産が売り物。やがて身体が出来上がると自然に打球は飛距離を増した。

 MLBは黒人選手に門戸を開いたものの、球界にもアメリカ社会にも依然として差別は根強く残っていた。

 サマーオールが同書の中で書いている。

〈差別は最後まで彼についてまわった──破ろうとしていた野球史上もっとも有名な記録が、たまたま白人だった伝説の選手のものだったからだ。アーロンは、何度となく、バッターボックスで時速九十五マイルの速球に立ち向かうだけでなく、試合のまえにホテルに届く脅迫状にも立ち向かわなければならなかった〉

 伝説の選手とはベーブ・ルース。アーロンは、73年シーズンを通算713本塁打で終えた。ルースまであと1本。そのオフは重苦しく長い日々となった。執拗な嫌がらせが続き、身の危険を感じる脅迫もあった。そんな中、アーロンは言った。

「ベーブ・ルースを忘れてほしいとは思っていません。ただ、私を覚えてもらいたいのです」

 74年4月4日、開幕戦の第1打席3ボール1ストライク。アーロンはこのシーズン最初のスイングで714本を達成した。そして4月8日。ブレーブスの本拠地、アトランタ・フルトン・カウンティ・スタジアムのドジャース戦、4回裏無死一塁の場面でレフトにホームランを放ち、ついにルースの記録を上回った。

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