「茂木敏充」新幹事長が絶対口にしない日本新党時代 枝野と初当選同期であっという間に自民党復党の変節の過去

国内 政治

  • ブックマーク

“裏切り者”

 旧栃木2区でも、日本新党ブームが起きた。当時は中選挙区制だったため定数は5。新人の茂木は、自民党や社会党の前職を上回る票を獲得し、トップ当選を果たした。

 朝日新聞の栃木県版は選挙後、「他党驚かせた新党旋風 記者座談会」の記事を掲載。記者の一人が「日本新党の茂木がトップ当選したのには驚いた」と口火を切り、「組織を持たないボランティア選挙で6万2000票だ」と徒手空拳でも勝利できたことを指摘している。

 経済評論家として活躍していたとはいえ、決して知名度は高くなかった。旧栃木2区は都市型の選挙区ではないこともあり、対立陣営が「当選はありえない。4万票止まりだ」と口を揃えていたと別の記者が指摘している。

 自民党に後ろ足で砂をかけ、茂木は勝利を収めた。日本新党で“同期当選”したかつての仲間を見てみると、今でも野党の中心にいる議員が多いことに気づく。

 元首相で立憲民主党最高顧問の野田佳彦(64)、国民民主党代表代行の前原誠司(59)、辞意を表明した立憲民主党代表の枝野幸男(57)……。

敵の敵は味方

 1994年、当時の首相だった羽田孜(1935〜2017)は内閣総辞職を決断。自民党と社会党、そして新党さきがけは連立を組み、村山富市(97)が新首相に選出された。

「日本新党の解党により仲間の大半が新進党に移り、今も野党の議員です。ところが茂木さんは自民党に復党しました。そして今や幹事長です。かつての同期は『節操のない人だ』と呆れた目で見ています」(同・記者)

 茂木は最初、無所属を選んだ。自民党への復党が認められたのは1995年。当時、毎日新聞は、茂木が新進党の結成を主導し幹事長に就任した小沢一郎(79)に批判的だったことが、新進党に加わらなかった理由だと報じた(註2)。

 敵の敵は味方という言葉もある。とはいえ、当時の自民党が諸手を挙げて茂木の復党を歓迎したわけではなかった。

 1995年7月に参議院選挙が行われた。衆議院議員の茂木も応援にフル活動しなければならない。だが、当時は自民党の復党こそ認められたものの、次の選挙から中選挙区から小選挙区となる栃木5区での公認は得られていないという中途半端な状況だった。

次ページ:“雑巾がけ”の洗礼

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。