「茂木敏充」新幹事長が絶対口にしない日本新党時代 枝野と初当選同期であっという間に自民党復党の変節の過去

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東京佐川急便事件の影響

 この後、永田町で「政治改革」を巡る議論が活発化したことが、茂木の人生に大きな影響を与えた。

「1988年、リクルート事件が発覚し、当時の竹下登首相(1924~2000)は内閣総辞職に追い込まれました。自民党の内部からも『国民の批判が強く、選挙で戦えない』と悲鳴が続出。『自民党の候補者が乱立する中選挙区制が汚職の温床となっているため、小選挙区制に改正すべきだ』との声が出ました。ところが、選挙改革は遅々として進まず、有権者の不満は増していきました」(同・記者)

 1991年に入ると一般市民もバブル景気の崩壊を実感するようになり、これも自民党に批判的な世論が生まれるきっかけになった。

 追い打ちをかけるように、翌92年2月14日に東京地検特捜部が「東京佐川急便事件」の捜査を開始。自民党の大物だった金丸信(1914~1996)を筆頭に、政界への金の流れが連日マスコミで報じられた。

「92年8月、東京佐川急便から金丸氏に5億円のヤミ献金が行われていたことが発覚しました。金丸氏が政治資金規正法違反を認める上申書を提出したため、東京地検特捜部は本格的な捜査を中止。罰金20万円の略式命令のみという結果に終わりました。しかし、これに世論が猛反発したため、特捜部は93年3月に金丸氏を脱税の容疑で逮捕に踏み切りました」(同・記者)

日本新党ブーム

 有権者の政治不信が高まったことを受け、細川護熙(83)が政治刷新を訴えて92年5月に日本新党を、大前が同年11月に市民団体・平成維新の会を結成。茂木は平成維新の会の事務局長に就任した。

「茂木さんは92年の3月、次の衆院選に地元の旧栃木2区から自民党候補として出馬すると表明していました。当選したら自民党の議員として平成維新の会の運営に携わり、与野党を問わず“改革派”の国会議員を糾合するという青写真を描いていたのです。ところが、予想以上に日本新党に注目が集まったこともあり、茂木さんは“鞍替え”を決断しました」(同・記者)

 93年6月、翌月に控えた衆院選に日本新党からの立候補を発表。その際、「自民党を変えることで日本の政治を変えるのが近道だ、と思っていたが、それは不可能だと感じるようになった」と説明している(註1)。

 かつて自分が立候補しようとした政党を、臆面もなく批判する。賛否両論があるだろうが、まさに「機を見るに敏」だったのは確かだ。

 日本新党からの立候補は大成功を収めた。93年7月の衆院選で、有権者は自民党に厳しい審判を下した。その結果、“非自民・非共産”の連立内閣である細川内閣が誕生した。

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