死刑宣告されたドストエフスキー 佐藤優氏が親近感を覚える「国家の恐怖」
今年生誕200年・没後140年を迎える文豪ドストエフスキーが、一度は皇帝に死刑宣告をされたということを知る人は少ない。気まぐれのようにシベリア流刑に減刑され、かろうじて命をつなぎ、その後に長大な傑作群を多数残した。元外交官で長くロシアに駐在した作家、佐藤優氏の著書『生き抜くためのドストエフスキー入門』によると、ドストエフスキーがその時に感じた「国家の恐怖」が創作の源泉になっていることがわかる。同書を再構成してお届けする。
父親の惨殺
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは1821年10月30日、モスクワに生まれます。これはユリウス暦で、われわれが使っているグレゴリオ暦だと1821年11月11日になります。
1821年は文政4年。2年後にはシーボルトが来日し、4年後には幕府によって異国船打払令が出される幕末の頃です。ちなみにドストエフスキーに生年の近い有名人は、1823年生まれの勝海舟、25年の岩倉具視、27年の西郷隆盛あたりかな。西郷さんは大昔の人だという感じがするけれど、ドストエフスキーが描いている世界はかなり現代に近い感じがしませんか? このことは西郷さんが資本主義と関係がなく、ドストエフスキーは資本主義のある世界に生きたことと関係しているのかもしれない。そんな時代感覚の違いがあることも押さえておきましょう。
18歳(1839年)の時、父親がチェルマシニャー村の外れで殺害されました。死因は喉に布切れを詰め込まれての窒息死で、農奴に乱暴狼藉を働いていたから恨みを買ったんですね。この父親、あるいは父親の死がドストエフスキーと彼の文学にどんな影響を及ぼしたかは昔から大きな研究テーマになっていて、古典的なものだと精神科医フロイトの『ドストエフスキーと父親殺し』(光文社古典新訳文庫)があるし、最近ではロシア文学者の亀山郁夫さんが『ドストエフスキー 父殺しの文学』(NHK出版)で詳細に分析しています。
私が注目したいのは、父殺害の報せを聞いたドストエフスキーがあまりのショックに初めて癲癇の発作を起こしたことです。この病気は宿痾となって、ドストエフスキーに生涯ついてまわるのですが、彼は癲癇の発作を起こしたあとに傑作を生み出すことが多いですし、登場人物がこの病を持っていることも多いのです。新潮社版『ドストエフスキー全集』の別巻にはレオニード・グロスマンというソビエトの有名作家が詳細に調べ上げた、膨大なドストエフスキーの行動記録が載っていて、そこには癲癇の発作についても克明に記述されています。
余談ですが、戦前から戦後にかけて活躍した作家のグロスマンは、なぜこんな気の遠くなるような調査研究をしたのか? スターリン体制下のソビエトでは才能ある作家たちが創作の自由を奪われていたから、作家たちは優秀であればあるほど、その抑圧されたエネルギーを古典文学研究に注ぎこんだのです。その一例がグロスマンのドストエフスキー研究ですよ。
創作の自由がない一方で、潤沢な国家予算を与えられていましたから、80年代にペレストロイカが始まるまでのロシアの文学全集は質が高かった。ドストエフスキー全集も、いちばん優れたものは1970年代にソ連科学アカデミー・レニングラード支部から出されはじめた全30巻のもので、アカデミックなテキスト検証なども全て押さえてあります。ちなみに『ドストエフスキーと現代』という本は、1971年にドストエフスキー生誕150周年記念として刊行された論集を、モスクワのプログレス出版所が日本語に翻訳して活字まで組んで、80年に刊行したものです。ソ連の国威宣伝のために作られたものですが、内容はしっかりしており、おすすめですよ。
ちなみに、ソ連時代の書籍には誤植がほとんどありません。アンドレイ・タルコフスキー監督の『鏡』という映画を観たことある? タルコフスキー自身を投影した少年が主人公なんだけど、母親が校正の仕事をしていて、明け方に「誤植があったんじゃないか」と不安になって、雨の中を印刷所まで駆けつけてゲラをチェックする印象的な場面があります。ソ連では1冊の本を作るのに3年から5年もかけるので、当然何度もゲラを読む。そして、誤植を出した場合は編集者・校正者は仕事に誠実でなかったと見なされてクビになります。それくらい厳しかった。もし活字で「スターリン」と組むところを間違えて「スラーリン」と組んでしまったら、これは「垂れ流し野郎」という意味になるので、クビどころかシベリアに25年ぐらい送られかねなかったんです。
国家の怖さを知る
学校時代のドストエフスキーは読書に熱中し、小説の習作の執筆も始めました。22歳(1843年)で卒業して陸軍少尉になり、工兵局製図室というエリート部署に配属され、一方でバルザックの『ウジェニー・グランデ』をロシア語に翻訳もしています。フランス語の能力も相当あったんですね。
23歳(1844年)のときに相続権を放棄して、なおかつ工兵局を辞め、背水の陣で小説を書き始めました。これが今も新潮文庫で読める『貧しき人びと』、ジェーヴシキンという中年の9等官と貧しい孤児ワルワーラの交わした書簡形式の作品で、「人生のわびしさや辛さがみごとに描かれている」と文壇から絶賛され、1846年に華々しいデビューを飾ります。
ところが、続く『分身』『プロハルチン氏』『白夜』は全く評価されず、「ドストエフスキーは貧しい人々に光を当てる社会正義派の作家だと思っていたのに、じつは弱者の滑稽でグロテスクな心理や行動を描こうとする異常な作家だった」と批判されました。こうした掌返しに彼は反発するように、「ペトラシェフスキーの会」へ接近していきます。会の主宰者、ミハイル・ペトラシェフスキーは「帝政を打倒して社会主義的なユートピアを作ろう」と唱える、かなり過激な空想的社会主義者です。
そして運命の1849年4月15日、28歳の彼はサロンの会合で、それまで公表を禁止されていた、批評家ベリンスキーが作家ゴーゴリに宛てた手紙を読み上げました。
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この手紙は、ロシア正教会に対する徹底した批判につらぬかれ、神に仕える敬虔な民衆という通念をしりぞけつつ、将来における政府転覆の可能性をも匂わせる内容を含んでいた。
だいちの会合には、以前から秘密警察(皇帝直属第3課)のスパイが送りこまれており、その一部始終が当局に筒抜けとなっていた。ドストエフスキーの朗読についてもくわしく報告がなされ、メンバーの反応についてこう記されている。
「4月15日。……ベリンスキーはロシアとロシアの民衆の現状を論じている。……正教はあらゆる宗教のなかでもっとも卑劣な宗教であり、常に権力の武器となり、世俗の権力に服従してきた。……ロシアの民衆は宗教的感情など持っていないし、神秘主義に走るほど愚かではない。……この手紙は、一同を有頂天にした。……要するに、全員が電気ショックを受けたかのようだった」
(亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟5』エピローグ別巻[2007年、光文社古典新訳文庫]「ドストエフスキーの生涯」より)
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この結果、ドストエフスキーを含むペトラシェフスキーの会のメンバー34人が逮捕されて、裁判で死刑判決を言い渡され、12月22日、死刑執行のため練兵場に連れ出されました。しかしこの時、ドストエフスキーは死を全く恐れていなかったのです。むしろ「おれは自分の主義主張を通して、悔いなく生涯を終えるんだ」と腹をくくって抵抗もせずにいた。ところが、いよいよ撃たれるという直前、皇帝の勅使が現れ、「特赦が下った。シベリア流刑に減刑する」と告げられます。これは皇帝の力を示す、うまいやり方だよね。もちろん、全ては最初からお膳立てが整えられていた、お芝居だったわけです。
この経験はドストエフスキーを大きく変えました。死をも恐れなかった彼は、「自分はこのあとも生き続けなければいけないんだ」とわかった瞬間から、国家をひどく恐れるようになった。国家は人の命を奪うだけではなく、人に命を与えることもできる、つまり神に次ぐような力を持っていることを皮膚感覚で知ってしまったんだね。
じつは私自身にも似たような体験があります。私は鈴木宗男事件に連座して2002年5月14日に逮捕されました。最高裁まで争いましたが9年6月30日に最高裁が上告を棄却、懲役2年6カ月と執行猶予4年の刑が確定しました。執行猶予がつくと、満期日を無事に過ぎれば刑がリセットされます。私は執行猶予中に、赤信号で横断歩道を渡って道路交通法違反だとか、つまらない法律違反をしないよう注意深く過ごしていたものの、正直、「国家権力は怖い」なんてあまり思っていませんでした。逮捕から執行猶予満期までの11年間、「おれは外務省で普通に仕事をしていただけなのに、なんでこんな目に遭うのか」と理不尽な思いを抱えて過ごしていただけです。ところが満期日である2013年6月30日が過ぎて7月1日になった瞬間、突然、体が震えた。怖い。こんなことは二度とごめんだ、と心底思った。
ドストエフスキーの恐怖は私の比ではなかったでしょう。彼は、自分の人生はこの時に終わって、あとは余生だとさえ思ったんじゃないだろうか? 皇帝への忠誠心や、「自分は良きロシア正教徒である」などと体制順応派であることをたびたびアピールする彼の過剰さは、この経験から生まれてきたと私は見ています。
監獄での体験
シベリアのオムスク監獄まで徒歩で向かう途中、彼は聖書――一説には当時迫害を受けていた分離派の聖書だったと言われていますが――をもらい、獄中に唯一持ち込むことのできた本であるこの聖書を徹底的に読み込みました。また彼は「監獄での4年間に人間観察の眼を養うことができた」と振り返ってもいます。これも私にはよくわかる話です。窮地に陥ったときの体験は、その人のその後の人生の思考や感受性に大きな影響を与えます。
1854年、33歳の年に刑期を満了し、中央アジア・セミパラチンスクのシベリア守備大隊に兵卒として送られました。中央で軍のエリート幹部になるはずだったドストエフスキーのような男にとって、これは屈辱だったでしょう。しかも、悪い癖が騒ぎ出します。彼はなぜか人の奥さんを好きになる不倫癖があって、県庁の書記イサーエフの奥さん、マリアを好きになってしまった。そして1855年、日露通好条約が結ばれ日本とロシアの外交関係がスタートした年にイサーエフが死に、翌々年マリアと結婚。『小英雄』の執筆もし、作家として再出発しました。
38歳(1859年)で皇帝に嘆願していた兵役解除が認められます。つづいて首都への居住も認められ、彼は10年ぶりに首都サンクトペテルブルグに帰還して、警察の監視は常に受けつつも、再び専業作家の道を進み始めました。兄と雑誌「時代」を創刊、翌年からシベリア監獄での経験をまとめた『死の家の記録』を執筆、続けて『虐げられた人びと』を発表します。
1861年は農奴解放令が出されロシアの社会構造が大きく変わる年で、革命派と見られていたドストエフスキーは、そのころから保守派の作家として活動を始めます。検閲と監視を恐れた彼が文章を書いて生きていくためには、社会革命への情熱や無神論は自分の中に封じ込め、別の顔をしなくてはならなかったのでしょう。ドストエフスキー作品の登場人物たちがそれぞれに独立して自らの考えを主張し、その響き合いが作品を構成する様子は「ポリフォニー(多声性)」と評されますが、ドストエフスキー自身の中にも複数の彼がいるのです。そこを知ることがドストエフスキーを読むうえで重要になってきます。
佐藤優(さとう・まさる)
1960(昭和35)年生れ。1985年、同志社大学大学院神学研究科修了の後、外務省入省。在英日本国大使館、ロシア連邦日本国大使館などを経て、1995(平成7)年から外務本省国際情報局分析第一課に勤務。2002年5月、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕。2005年2月執行猶予付き有罪判決を受け2013年執行猶予期間を満了。2005年『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―』で毎日出版文化賞特別賞を受賞した。主な著書に『自壊する帝国』(新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞)、『日米開戦の真実―大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く―』『獄中記』『国家の謀略』『インテリジェンス人間論』『交渉術』『いま生きる「資本論」』『いま生きる階級論』『高畠素之の亡霊』『新世紀「コロナ後」を生き抜く』『生き抜くためのドストエフスキー入門』などがある。