石橋正二郎 ブリヂストン創業秘話 地下足袋屋はなぜ自動車タイヤの製造を始めたのか
自動車タイヤの国産化を決意
ゴム靴や長靴を製造するまでになり、アサヒマークの商品は中国、満州にまで販路が広がった。ゴム靴を含めると年産6000万~7000万足を製造するまでになった。
《世界不況になっても経営はゆるがず、蔵相の井上準之助が議会で、「なお繁盛発展しているものがある。東のマツダランプ、西の日本足袋がそれである」と発言したほどだ》(前掲書)
マツダランプとは大正から昭和にかけて広く親しまれた東芝の電球の呼び名であった。
正二郎は青年実業家として注目される存在になったが、それに満足する男ではなかった。起業家としての真骨頂が発揮されるのは、ここからだ。
「将来のゴム工業として大きく伸びるのは何んといっても自動車タイヤであるから、私は自分の手でこれを国産化したいと決心した」
自動車は日本全土に3〜4万台程度しか走っていなかったが、米国の自動車ブームが必ずや日本にも到来すると見越しての決断だ。
日本の自動車タイヤ産業は大正初期に黎明期が訪れた。まず、英ダンロップの子会社がタイヤの生産を開始。続いて古河電気工業の前身の会社が米国のタイヤメーカーとの合弁会社、横浜護謨製造(現・横浜ゴム)を設立した。
周囲は猛反対
しかし、製造技術は欧米とは比べものにならないほど劣っていた。日本製のタイヤが新車に採用される可能性はゼロに近かった。
こうした環境下で、正二郎はタイヤの国産化を決断するのである。パイオニア精神は旺盛だったが、何が何でもやろうと独走するタイプではなかった。
「石橋を叩いて渡る」といわれた彼は、周りの人たちの意見を聞いて、総合的に判断して決断すべき時には決断する人物だった。
以下、ブリヂストン編『ブリヂストン物語』(ブリヂストン公式サイト)をベースに話を進める。
自動車タイヤの企業化について正二郎は、まず兄で日本足袋社長の2代目・石橋徳次郎に相談した。
「新事業は危険であるし、やらないほうがいい。日本足袋は立派な業績をあげているのだから、何もそのような危険な事業に飛び込んで苦労することはない」と反対された。
日本足袋の技師からも「タイヤの製造は極めて難しく、技術的に成功する見通しはつきかねる」と賛同を得られなかった。
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