オムロン創業者の立石一真 駅の自動改札機を開発した男の「7:3の原理」

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オートメーションこそ我が道

 鉄道の駅で混雑解消に欠かすことができない自動改札機などの駅務システムで、現在、オムロンは国内シェアの50%を独占している。

 立石一真は1900(明治33)年9月20日、熊本市に生まれた。熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)電気科卒。兵庫県土木課に技師として入る。

 前半生は苦難の連続だった。転職した京都市の配電盤メーカー、井上電機では、継電器の開発で頭角を現す。継電器は後に制御器事業の要となるリレーとして結実するのだが、この時代は不景気で、一真は希望退職を余儀なくされた。仕方なく日用品の行商で一家を養う。

 1933(昭和8)年、大阪市で立石電機製作所を創業。継電器の製造を始めた。しかし、戦災で大阪の工場が全壊。戦後、京都に本拠を移して再出発する。

 転機は50歳を過ぎたころに訪れた。経営者の集まりで専門家からオートメーションの話を聞いた。「米国には原材料を完成品にまで仕上げる無人工場がある」というのだ。

 立石は後に、これが決定的瞬間になったと語っている。オートメーションの分野なら本業の継電器の技術が生かせるかもしれない。折しも企業の生産性の向上の意欲は高まっていた。将来性は十分とみて販売体制を整えることにした。

あえてリスクを冒す

 1955(昭和30)年、「これぞ我が道」と強く心に期して、オートメーション(自動制御)に取り組む。根っからの技術者である一真は、自動券売機、CD、ATM、自動改札機など世界初の製品を次々と発明し、オートメーションの先端企業として産業史に足跡を残すことができた。運も味方したことだろう。

 ところで、技術者である立石一真が、どうやって世界的経営学者のドラッカーから称賛される経営手法を編み出したのか。

『週刊ダイヤモンド』元編集長の湯谷昇羊が著した『「できません」と云うな――オムロン創業者 立石一真』を要約する。

〈オートメーションという新しい市場は、既にアメリカで芽吹いていたものの、日本ではまだどの会社も乗り出していなかった。一真は、オートメーション工場に必要なのは、制御継電器であり、これならマイクロ・スイッチやタイマーなどが多種多様に使われるだろうと考え、あえてリスクを冒すことを決断した。

 オートメーションの旺盛な需要に応じていけば、必ず品種が増えて生産管理が面倒になる。これまでの工場生産方式では行きづまるだろう。一真は新しい経営形態を模索した。部品別に別会社方式で専門工場を作れば、全体としては多種少量生産だが、各専門工場では少種多量生産を維持できるのである。生産効率がいいはずだ。

 立石が行きついたのは分権経営である。生産管理と労務管理以外の財務、総務などの管理・事務一切は親会社が集中管理する。研究開発と販売会社も独立させ、専門工場は生産に専念する。専門工場は独立採算制とする。このアイデアをプロデューサー・システムと名づけ、1955年から実践した。〉

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