野村監督は新庄剛志になぜ投手をやらせたのか 「悔しいくらいかわいい」と言わせた師弟関係
野村が説教!?
1992年のシーズン序盤から1軍の試合に出場すると大活躍。ルックスの良さから女性ファンも多く、球団寮の虎風荘には1日段ボール1箱分のファンレターが届いたという。
その後も阪神の“プリンス”として常に注目の的となるが、1995年の契約更改で突然、引退を宣言した。当時のセ・リーグ会長が、引退宣言を撤回するよう説得するなど大騒ぎとなり、いわゆる“ストーブリーグ”における格好のトピックとなった。
「野村さんは1990年から98年までヤクルトの監督を務めました。4回のリーグ優勝、3回の日本一。95年の日本シリーズではイチロー選手を完璧に封じ込んでオリックスを下し、まさに“名将”の評価をほしいままにしていた時期です。ところが、野村さんが当時の新庄を、阪神という他球団の選手にもかかわらず批判した記事が残っています」(同・記者)
95年12月、日刊スポーツは「阪神 新庄問題 ヤクルト野村監督がピシャリ 『やることをやれ』」の記事を掲載した。
「欲しい選手」だった新庄
ヤクルトの名物オーナーだった松園尚巳(1922〜1994)は94年12月に死去。1年が経ったことから「偲ぶ会」が開かれ、現役の監督だった野村も出席した。その帰り際に取材に応じ、“新庄問題”についてコメントしたのだ。記事から引用しよう。
《新庄について語気を荒らげた。「何でもめとるんや。監督と確執? 若造が偉そうなことを言うんじゃない。やることやってから言えというんや」とピシャリ。「ワシがよその選手のことをとやかくいうことではないが」と前置きしたものの、厳しい表情だった》
なぜ、これほどまで強く批判したのか。どうでもいい選手なら、気になるはずもない。記事の続く部分では、野村が以前から新庄に注目していたことが書かれている。
《野村監督は新庄の野球センスを高く買い、評価していた。新庄をつかまえて「ヤクルトのスカウトは行かなかったのか」と直接聞きに行ったほど、欲しい選手でもあった》
野村は新庄の資質に惚れ込んでいた。この事実を踏まえていただき、野村の晩年に時間を飛ばそう。野村は週刊大衆で「野村克也 プロ野球スター名選手 新ボヤキ論」の連載を行っていた。
2020年2月10日号は新庄がテーマ。野村の新庄に対する評価を引用する。
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