【袴田事件と世界一の姉】散歩中に交番前でお辞儀……巖さんが男の人に気を許さない理由

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 1966(昭和41)年6月30日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で、味噌製造会社「こがね味噌」の専務一家4人が殺害された上に、自宅が放火された「袴田事件」。強盗殺人罪などで死刑が確定し、2014年3月に再審と釈放が決まるまで、半世紀もの間、拘置されていた元プロボクサーの袴田巌さん(85)は、現在どのように暮らしているのだろうか。(連載第2回・粟野仁雄/ジャーナリスト)

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巖さんの日課「市内パトロール」

 静岡県浜松市にある袴田ひで子さん(88)と弟・巖さんが住むお宅を訪れたことは何度もあったが、巖さんの日課である「市内パトロール」に筆者が付き合ったのは初めてだった。10月17日、日曜日の午後。雨予報だったが、日中は穏やかに晴れた。今秋、列島が急に冷え込んだ日の前日だ。

 以前は、自宅を徒歩で出発し半日間も歩き通していた巌さんだが、最近は「見守り隊」の猪野待子隊長の車がお気に入りだそうで、自宅からJR浜松駅まで猪野さんの運転で送ってもらう。駅に着いた巌さんは、「見守り隊」の方に付き添われてパトロールを始める。この日の当番は、50代の女性Aさん。「散歩ではなくて巌さんの大事なお仕事なんですよ。浜松の街に“バイキン”がいないかどうかをパトロールされるんです」と話す。

“バイキン”とは、巖さんが東京拘置所に収監中、「拘禁症」の影響で言動に変調をきたした頃から口にしている言葉で、2014年に釈放された時にも「黴(ばい)菌を退治する」と言っている。「社会に巣くう悪者」といった意味だろう。

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