英国はコロナ感染再拡大でも規制強化せず…日本人には理解できない「死生観」の違い

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コロナが特別ではない

 日本では「収束」に関する具体的な議論が進んでいない。コロナに対する恐怖心が強くなりすぎてしまったことから、「収束」についての具体的な基準を示せば、「経済を回すために少数の人を見殺しにするのか」と、批判が起きることを政府は怖れているのかもしれない。

 第5波の時に自宅療養者が多数死亡したことが社会問題となった。痛ましい出来事だったが、コロナ禍以前も緊急搬送先が見つからないなどの理由で亡くなる人が少なからず存在していた。コロナだけが特別だったわけではない。

 日本でのワクチン接種率が7割超えとなった現在、換気が悪い場所でのマスク着用等を続けていれば、感染者の急増で医療体制が逼迫するリスクは格段に低下したと言える。新型コロナウイルスをいつまでも特別視するのではなく、政府はそろそろ「コロナ収束宣言」についての議論を始めるべきではないだろうか。

新たな「医原病」の誕生

 近頃、「科学(医学)に基づく政治」が当然視されるようになったことにも、筆者は違和感を覚えている。念頭にあるのはオーストリアの哲学者、イヴァン・イリイチが1970年代に提起した「医原病」という概念だ。イリイチは、「健康」に関するすべての問題が医療専門家にコントロールされるようになり、人々は常に何らかの健康不安を抱える状態になったことを「医原病」と呼んで問題視した。

 必要な時期があったとはいえ、感染症の専門家が人々の行動に介入することが当たり前になった日本の現状は、新たな「医原病」が誕生したと言っても過言ではない。

 諸外国に比べ感染者数や死者数が少ないのに、日本人が新型コロナウイルスを必要以上に恐れている原因を「死生観の欠如」に求める指摘もある。

 戦後、日本を含め先進国では「死」を日常生活から隔離する風潮が高まり、「死」が近づいている家族や友人に対して積極的に向き合うことができなくなってしまった。現在、日本の「病院での死」の比率は先進国の中で最も高くなっている。医療現場では、末期の患者に対する延命治療に終始するあまり、家族との別れが満足にできない場合が多いと言われている。地域の人々と行っていた弔いの儀式なども形骸化、喪失してしまった。

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